あかんたれブルース

継続はチカラかな

大悪獣ギロンの厄災



ギロンといえば
ガメラ映画に登場した対戦相手の怪獣
大悪獣ギロン
包丁のような怪獣でした。

この大悪獣ギロンが世に蔓延っている。

なにかといえばギロンギロンギロン

そんなにいいものか?

2006年春から「お金と人生と幸せと」
というブログタイトルではじめて
基本スローガンは「常識を疑え」を
訴えてきました。
ブログタイトルは一昨年あたりから
コロコロ代わりますが
この基本スタンスはずっと変わらない。

「そういった常識や価値観は
 時代時代によってコロコロ変わるんだ」

というフレーズは何度も使ってきた。
その時代っていっても10年単位のものです。


ものの善悪さえもこれに影響されている。
定番化され、パターン化された
お約束みたいなもので判断されている。
これはとても恐いことだと思う。

よく目にしたブログ内の論争で
「正義」がネタになる。それに対する
懐疑や疑念もそれだ。
「独善正義」という言葉に立ちすくんでいる。

一方の正義は他方の正義とは限らない。
それはその通りだと思う。
ただし、そこから正義というものを
掘り下げてみることはなく
曖昧にお茶を濁すか、平行線のままの対立で
揉め事に発展するケースが多いものです。


双方が疑わない正義をもって
ギロンで理解し合えると考えているようだけれど
双方が決して譲らない正義がある以上
ギロンでは理解し合えない。
はなっから自分が正しいと考えているからねえ。
ギロンのためのギロンっていうのもある。
勝ち負けとしてのギロン。
ディベートと混同しているのだ。

とは別に
日本人はみょうな常識や価値観で
縛られている。
ホントにそれが正しいと思っているのか?

本当にそれがいいのか?
楽しいのか? 面白いのか? 美味いのか? 

「人それぞれ」という解説では
とても納得できない「 ? 」がある。

多様化?なのだろうか
いやあパターン化なんじゃないの。

キーワードのような記号のような
もので反応してる。
本質ではなく表面のディテールで感応してる。


私たちは鳥になった。

孵化して最初に目にしたものが
マクドナルドだったり
牛丼だったりドーナツだったり
ダウンタウンのお笑いだったり
スマップの歌だったり
「もっと議論すべき」だったり
「欧米では」とか「遺憾の意」とか
個人の自由だったり
「関係ないだろう」だったり
外はカリッカリで中はジューシー
「ふっかふか」だったり「もッちもち」だったり
肉汁が肉汁がと大騒ぎなのだ。


飛んでみせてくれ