あかんたれブルース

継続はチカラかな

この気なんの気



昨夜の続き
西原の『女の子ものがたり』を思うと
学生時代の友人っていうのは
それぞれの家庭環境は別としても
同じ年生まれがいっせいに
同じ教室で学び遊び給食で同じものを食う
たとえば、わたしは昭和34年で亥年の生まれですが
だいたい8割ぐらいが亥年
残りが早生まれの子年です。
これ運命学的に不思議な現象なのだ。

地方から出た人であれば
社会人になってから同じ歳の人に出合うのは
むしろ希なケースだった思う。

学校の先生で毎年生徒を観ている立場だと
今年の生徒は猪突猛進だとか
几帳面だとか執念深いとか
なんて傾向がみてとれるのでしょう。

そんな『女の子ものがたり』の女の子たち
だったのですが、卒業するとそれこそ
みんな人それぞれです。

竹箒みたいに根本を縛って割りと一緒だけど
そっから先は枝分かれしてぱーっと広がる。
日立のCMのこの木なんの木気になる木みたいな。


劇中では描かれていませんが
主人公(たぶん西原)にも色々あったんだろう。
それよりなにより、他のふたりがね・・・
なんかそれが非常に哀しいのだ。
平凡なぶんだけ悲惨でとても切ない。

みんないろいろだよ。

しかもそれは相対的なものだから
自分を基準にするだろう
そこで大小をいってもまったく意味がない。
誰かを説得するときに誰それさんはこうだよ
といってもほとんど効果はないものです。
自分のことしか頭にありませんからね。
ま、だからつらいわけだけど

つらい人にとっては
これっくらいのことでと思えることでも地獄だし、
かと思えば
たいへんな修羅場をくぐってきてるのに
笑い話ですます人もいるわだ。
それでも誰かがいっていたよ
そういのは苦労自慢みたいでいやだって。
そういうプライドがないと
とても生きていけないことを知ってる人の言葉だね。

他人にいえる苦しみや悲しみや悩みは
たかだか知れているものです。
本当に重荷を背負ってる人はそうそういえないものだ。
よっぽど相手を選ばないと戸惑わせてしまう。
こぼして楽になりたかったはずなのに
結局、相手を気遣ったりして
だから話さないようにすることを覚えるわけだ。

中島みゆきの歌に

どんなに傷ついていても
涙を流すことさえできない人も  
この世にはある
私は彼方で泣く


というのがある。
誰も知らない彼方で泣く
こういのは味わった人間じゃないと
わからないと思うよ。

そういうことを思うと
ときとして腹立たしくもなってくる。
世の中や他人を恨んでもキリがない。
そういのはどこかで断って赦すしかない。
ふんぎりをつけるのだ。
そして笑いに変えるのだ。

恨みは呪いだから自分自身も呪縛する。
自分で自分の首を絞めてるようなものだ。
自分の損を訴えないと損だと思っていやしないか?
それとこれとの損を天秤にかけてみるべきだ。
幸せになりたいんだろう?

一度捨ててしまう。

それにさ、自分ばっかりっていう考えは
それ以上の哀しみを背負っている人の
微笑みに対して
申し訳ないというか
気恥ずかしくなってくるものだよ。

笑うのだ。笑い話にしてしまう。

笑う門には福来る

幸せになりたいんだろう?