あかんたれブルース

継続はチカラかな

体罰といじめ(2)



幼子が転んだり柱にぶつかったり
なんらかしら厄災に遭遇した場合
泣くわけだ。

そのとき、保護者は
その理不尽を癒すために
床や柱や机や椅子やその危害を与えた物を
擬人化させて、
「○ちゃんに悪さして、こら!」と
それを叩いてみせる芝居をするものです。

すると泣いてる幼子は溜飲を下げる。

幼子に対して
それは因果応報で
お前が自分で転んでぶつかったのだとか
自業自得だとかという正論を諭すには
まだ早すぎるから。

(注)言っておきますが
 これはいじめや体罰の被害者に対する
 比喩じゃありませんからね。
 ちょっと気を抜くと変なところに引っかかる。


なにか問題が起きると
例えばいじめや体罰が事件となり問題が起きると

加害者、被害者、学校、保護者、教育委員会
役人、政治家、マスコミなどなど
誰かのせいにする。
ま、それぞれに問題はあるんだけど
最終的には「いじめ」や「体罰」のせいにする。
誰かの何かのせいにする。

問題の本質は環境にあるのに


本来のいじめや体罰の本質に迫ることはなく
短絡的にそれをなくせると考えている。

なにも教わらない子供のサッカーは
ゴールキーパーを除く10人と10人が
一つのボールを追ってグランドを駆け回る。
なかにはルールも把握してないものもいる。
こらボールを手でもっちゃダメだって(汗)


問題の本質は環境にあるのだけれど
それを見ようとはしない。
とにかく煩わしい問題は手っ取り早く解決させたい。

「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」

ケーキは高い。虫歯になる。メタボにもなる。
そうすると収拾がつかなくなって
誰も結論をみいだせなくなって
そうはいっても現実的には体罰は必要かと
本音と建前で咀嚼しようとして
また次の事件が起きるまで棚上げされていく。
これを何回何十年繰り返してきたことか。

体罰が問題じゃない。
その質と環境の問題であって
それをはっきりさせない是々非々の議論など
不毛でしかない。


ちょっと小難しい話をさしはさめば
日本の宗教(仏教・浄土教)的歴史から
三階梯を考えられるとされる。

(1)現実単純肯定型
 この世はすばらしいありがたやあの世もありがたや
 これが仏教伝来から平安にかけて国民意識
(2)現実単純否定型
 この世は嫌なところで来世に期待する。
 平安末期から鎌倉時代まで
 この場合は自分は別格にして、何かのせいにする。
 何かとは時代や社会で、それを嘆く。
(3)現実絶対否定型もしくは現実絶対肯定型
 自分自身を社会と度外視せずに一体化して
 すべてを(自分自身も)受け入れて
 否定もしくは肯定する。

通常のプロセスからすれば(1)→(2)→(3)
なんでしょうが、だとすると私達は
鎌倉時代から変わらないか逆行したかだ。
なんともはや(汗)


先日、柔道界の不祥事を受けて
田村(谷)亮子がコメントさせられていた。
国会議員でもあり柔道界の代表
でもある彼女としては困惑したことだろう。
下手なことはいえないよね。

うすらぽかんとテレビを眺めてて
わたしはまったく違うことを考えていた。
メダル獲得確実といわれる柔ちゃんに
体罰パワハラで指導できる者が日本柔道界に
いたのだろうか?

精神とか信頼云々といってもそんなもんじゃないか。
もしそれをやったら精神どころか精神病院か
警察か柔道界永久追放なんじゃないのかな?

相手をみながらの制裁や体罰してた。
そんなもにに
なんら価値などないし、それをもって
日本の精神論なんて言葉を持ち出すのは
おこがましいご都合主義の何者でもなく
恥の上塗りなのだ。

また、こういう環境にあって
リスクを承知のうえでそれを行使ぜざるおえなかった
教師だっている。
教師の注意に対して
「バカ」「ハゲ」「死ね」という暴言を吐く生徒。
それを注意しても名乗り出ない卑怯な生徒。
教師は全体責任として殴った。
卑劣な行為を教師として許せない。
言葉に責任をもってほしかったと。
殴ったのは言ったものだけではない。
当然の指導だと思う。
それでいいと思う。
わたしが保護者だったら感謝したいね。

いじめは加害者だけでなく
それを見て見ぬふりをした者たちの責任がある。


対して、学校側は保護者と生徒に謝罪した。
変な話だ。

それを当然とするのか?
体罰が絶対悪だから?
この教師の行った行為、指導は体罰なのか?
殴ったから暴力で体罰なのか?
では暴言を吐いた生徒はどうなったのか?

環境が悪すぎる。

みんな他者のせいにして責任を回避する環境。

加害者も被害者も傍観者も

体罰にちゃんと白黒をつけたほうがいいんじゃないか?
指導としての行為。
無論、その指導には内容的な正当性と不当性が
をはっきりさせてのことだけれど。

体罰を闇に追いやってはいけない。
喉元すぎれば、必ず
体罰を熱望する。それが繰り返されている。