あかんたれブルース

継続はチカラかな

魔法使いと言葉使いの棚卸し



宗教を宗教学的な見地から大別すると
原始宗教、民族宗教世界宗教
の、三つに分けられます。

原始宗教はシャーマニズムとか精霊信仰とか
そうそうフェチズムなんかもこれに入る。

民族宗教ユダヤ教ヒンドゥー教ジャイナ教
などなど。ある民族限定の宗教とかかなあ。
日本の神道もこれに入るわけです。
中国の道教儒教を入れたりするようですが
あれは宗教というよりも思想じゃないかなあ?
と考え込んでしまう。

世界宗教は御存知
仏教、キリスト教イスラム
の三大宗教(もしかしらヒンドゥー教も入るかも)

民族宗教世界宗教の区別はなかなか難しい
のですが、ここでは大雑把にいくよ。

民族宗教には自分達への選民意識があるが
世界宗教にはそれがフラットで
「信じるものなら救われる」というものなので
世界中に広まったわけです。

昨日の記事で
現代人の稚拙化な「自分を棚上げ」して
世を嘆き何かのせいにしてしまう思考を
鎌倉時代の日本人とかわらないじゃないかと
皮肉を込めて書きました。

この世界宗教は共通して
現実すべてを自分に受け入れて
否定もしくは肯定する一体型なのですね。
哲学的にみてもやっぱり三大宗教は優れてる
というか大人だ。
普及するはずだよね。
その意味で
イスラム原理主義とか武装勢力はどんなものかね。

さて、我々もだ
一神教の弊害ばかりに目を奪われてはいけません。
ユダヤ教がなぜ迫害されたか
民族宗教から発展できなかったか
も考えてみてね。

よく米国人や中国人は謝罪しないとう話を
ネタにしたりします。が、
鎌倉時代の日本人も謝らなかった。
下手に謝るとカネを払わなきゃならなかったから
だそうです(笑)。欧米か

車運転してて接触事故などやったら
絶対に先に謝っちゃいけないっていわれますよね。
訴訟大国アメリカの影響か
それとも近代化の徒花か、まったく鎌倉時代です。

ある歴史学者からこんな話を聞いた。
茨城県(弁)には敬語がなかった。

驚きの事実ですが
これはこの地(常陸)が豊かで
特に外部の人間に媚びたりする必要がなかったからで
まあ排他的でもあったわけですね。

茨城といえば水戸ですが水戸ッポといって
カーッとなると何をしでかすかわからない。
先週の大河ドラマ桜田門の変をやってましたが
あれが水戸ッポの性質を表す事例として
よくネタにされる。
また戦前は血盟団事件とか物騒なんだな。

こういった激情的な性質を育んだものに
「言葉使い」の影響がある。
私達はなんだかんだいって普段の言葉使いに
敬語とかが希薄になって
友達言葉、タメグチが横行しています。
うちのカミさんなんかさっぱりアホです。
めちゃくちゃ

ハリウッド映画なんかみてると
たとえば警官とかカーボーイとかの
相棒同士で年齢差上下関係があっても
タメグチだったりして、へえッと感心したものですが
最近の日本人も随分アメリカンナイズされたもんだ。

もともと村社会で縦型上下社会を形成する
日本人がまったく異文化のアメリカ人と同様に
ふるまうのはやっぱ無理があるんじゃないの?

古いかな?

謝罪しないについては単に自己防衛、保身であり
ここにも排他的な要素があるでしょうねえ。
これが共同体という枠組みよりも
個人に特化してる。

また、自分のことを棚上げした思考癖は
鎌倉時代への逆行というよりも
信仰心の薄れであって
物事を利害や損得にのみ判断してしまう。
この傾向は戦後から顕著になってきました。

つまりすべてが現世利益なんだね。
そこから御祓い祈祷など呪術的なものが介在する。
魔法使いなんだよな。

しかしさ、人間関係云々で
難しいとかなんだかんだいうけれど、
親友とか友情とかいうけれど
利害や損得を前提とした人間関係っていうのも
なんか頼りないものだなあと思うなあ。


そういった観点からも
いじめや体罰、暴言、暴力、無責任さなどなど
考えてみるべきだと思います。
別に宗教云々って話じゃないよ。
ぼっさーとして流されてちゃアカンという話。

社会と自分は一体化してるっていう認識は
当たり前のことであって
それを自分だけ棚上げして考える在り方は
幼稚である以上に虫が良くドツボにはまるものだ。
世の中なにが一番恐いかって
「自分だけは」という皮算用だ。
もしくは「自分だけが」とかね。

個の肥大化とはそこにある。