あかんたれブルース

継続はチカラかな

父の匂い

父の書棚(3)


結局、父の書斎から
わたしは何も影響受けなかったわけです。
それでも父は物知りでわたしにとっては
畏敬の存在だった。

年に一、二回帰ってくる
父のカバンは煙草の臭いなのか
独特な大人の、都会の香りがしました。
煙草はショートピースでしたが
たまにむせて吐いてましたっけ(笑)。

飛行機の機内食で出た
サンドイッチとかを食べずにもって
帰ってきてくれた。
わたしにとってはおしぼりの紙ナプキンの
臭いからして刺激的で
未知の世界を垣間見た、いや頬張ったんだな。
おしぼりじゃないよ、サンドイッチだよ。

カバンのなかに週刊誌とかあって
それを風呂焚きの種火に使ったりしましたが
なかにはエログラビアもあって
巨乳の外人女性のヌードに驚いたのは
たしか小学校一、二年ではなかったかと。
これも父の書棚になるのかなあ・・・

父から聞かされたことは
海上では野菜がとても高価なものということ。
だから野菜嫌いのわたしにわざと
貪るようにキャベツの千切りを食ってみせる。
驚きはしましたが、あまり効果はなかったかな。
あとは、船乗りほど哀れな職業はない。
孤独である。
お前は絶対に船乗りなんかになるんじゃない。
それは、影響を受けたと思う。

オイルショック以前の海運業
船乗りは稼ぎのよい仕事だった。
地元にも水産高校があって
当時のわたしたちの身近なエリートコースは
そこの無線科に進学することでした。
でなければ高専にいくか。

わたしは乗り物酔いが酷かったことと
父の影響で船乗りになるなんてことは
はなから選択肢になかった。

基本的に父は
あまり船や外国、仕事の話をしなかった。
海の上でも地震があって、船が揺れる話。
大柄のロシア人に腕相撲で負けたけれど
指相撲でリベンジして鼻をあかした話。
などを聞きましたが。

ベトナム戦争が勃発したとき
空爆のなかを命からが脱出した話は
上京してから叔父から間接的に聞いた話。
父からあまりそういった話を聞いていなかった。
もっと聞いておけばよかったなあと
後悔しています。

大阪の松下電器に就職して、徴兵され
海軍に入隊。広島で終戦を迎えた。
その後、日商汽船に入社して
苦学して機関長の試験に合格して
二千トンクラスの機関長までは務められた。
北はアラスカから南はベトナムインドネシア
東南アジアでいったことはないと豪語していた。

一度叔母の家で海軍時代の写真をみました。
褌姿で部隊全員が川遊びをしたときの記念写真。
五十名ぐらいはいましたかねえ。
大正15年生まれ。
海軍で広島で終戦をむかえる。
もしその部隊が大竹連隊だったならば
笠原和夫仁義なき戦いの脚本家)や
美能幸三(仁義なき戦いのモデル)と
接点があったかもしれない。

なにも聞いていないんです。
もっと聞いておけばよかった。
もっと話しておけばよかった。

ショートピースは独特の
甘い臭いがします。
牛皮のカバンとピースの臭いを
あわせると父の匂いがするでしょうか。