あかんたれブルース

継続はチカラかな

ジェームズ・ボンブの進級試験

仏の顔も三度笠 (4)


もうかれこれ七年ぐらい前の話ですが
このブログであるアイデアを記してみた。
そのヒントは横尾忠則
「はじめて人間になった人は我が儘だ」
という言葉から

輪廻があること
それは必ず人間だけの輪廻ではなく
下等生物から繰り返されていくもので
輪廻にも段階があるようなニュアンスと
受け取りました。

ミジンコやアメンボやポチに至って
ようやく人間まで輪廻して
はじめての体験でついつい自我をもてあまし
我が儘になってしくじってしまう。

そういう失敗を繰り返し残念な一生を終えて
またやりなしの輪廻を繰り返していく。
煩悩まみれの人生を。

何度目かの輪廻を繰り返していくうちに
すこしずつは慎みを覚えていくけれど
ハードル(課題)はどんどん高くなる。
理不尽な条件が課せられ、試される
そんな罠からついつい
しくじってしまう。
神とか天はそういうことに同情なんかしない。
しくじったらまたやり直し。

それは過酷な環境、条件のなかで
生きる人たちを知ってしまったとき
どうにもできないジレンマから搾り出した
気休めのアイデアだったのかもしれません。

Gさんという友人がこのアイデアにえらく
のってきました。
もっと続きが聞きたいと。
そんなものありはしない、と正直に話した。

彼は悟りを求めていた。
わたしはそんなもの求めてはいない。

彼には悟りを必要とする事情があった。
恵まれた環境で何不自由ない生活
彼の友人達はそのハイソで優雅な生活ぶりを
うらやんでいたものです。
彼には三人の美しい娘がいた。けれども
末娘が大きな障害をもって生まれてきた。
それは知的とか身体とかいうのではなく
その美しさを損なう残酷なものだったようです。
生後数ヶ月の乳児に医師が告げた
手術の内容説明に彼の妻は卒倒したそうです。
それは生きるために選択の余地のない
ものでした。生きるために与えられた障害。

彼はきっと自分を責めたんでしょう。
そして救いをもとめた。
彼にとっての悟りは救いだったのだと思う。

わたしは聖職者でもなんでもないし
このアイデアも思いつきとはいわないけれど
だったらどうする?の先も実はなかった。
少しずつ浄化して純化して昇天するんじゃないか?
菩薩とかそういうものに
マザーテレサとかヘレンはそういう人
だったんじゃないのかあ
まあ、こんなもんじゃないかと
思っただけです。
できれば誰か次のアイデアをだしてくれたら
いいかな~ぐらいかな。

その頃あたりなのか
スピリチュアルブームがあって
前世来世をやかましくいうようになった。
もともとそういうことには抵抗はないのだけど
なんか江原さんが露出すればするほど
細木が言えば言うほど
嫌になってきて
そんなもんあるか!と否定に一票にまわった。

前世なんかあるもんか。
それを真に受けたら
みーんなローマ時代の貴族じゃないか。
ある前世占いの友人がこう投げかけてきた。
「歴史をもっと教えて」って
前世占いには歴史の知識が必要なのよと。
ローマだけじゃなくバビロニアとか
ガリア人とかメラネシアとか南米とか
アフリカとか中国とかインドネシアとか
じゃないとみーんなローマ時代の貴族に
なってしまう。
これじゃ不味いと思ったわけだ。
笑えないよね。まだ真面目なほうだと思った。

すっかりそういうものに愛想を尽かした。
思考停止に陥らせる陰謀説同様に。
とっころが、最近また考え方がかわりまして
こりゃあるなあと。

数年前から易経をみっちりテキストにして
「変化」と「循環」の法則性を納得した。
これは正しい。
先日も東大の教育学のスペシャリストと語り
学術的にも循環教育が非常に重要だと
認識し実行に移しているとのことです。

とは別に易経が20世紀初頭に
欧米科学に多大な影響を与えたこと。
そのなかのひとり、
ユングの深層(無)意識の繋がりがずーっと
喉の奥に小骨が刺さったような感じでしたが
そういうことがここ数年、具体的な事象で
自分自身に影響を与えています。

具体的にいうと、ちょうど二年前
よし姉が「あの世はあるのか?」と
真面目に質問してきて、わたしは即答できなくて
数秒の「間」をおいてしまった。
そのときは彼女の話題は違うところに飛んで
機会を逸してしまった。
御存知のように彼女は末期癌で医者からも
見放されているので、死とかあの世については
なみなみならぬ関心や不安があったと思う。
その半年後に彼女の家を訪ねて
そのことを話さそうと思ったのですが
どうもそういう雰囲気でもなく
また、これといってわたし自身がいうべき
ほどのものをもっていなかった。

とは別になんの因果か仏教を学ぶことになって
ここ三年、「とんでもない安請け合いをした」
と毎年試験前になると後悔先に立たず、です。
ただ、それとは別に、学問としては
これはこれで面白いものだと思う。

因果と縁起についてはここから得心しました。

因果はだいたいみんなわかるでしょうが
これに変化と循環を重ねると、納得する。
繋がっているんだ。
そして、縁起。
繋がっているんだ。みんな繋がっている。
その関係性のなかで
わたしたちは生きている。
いや、生かされている。

わたしのところにAさんが相談にくる。
それとまったく違うところで
BさんとCさんにも似たようなことが起きて
まあ起きる事象は違うかもしれませんが
それぞれの問題に共通するキーワードが
一緒なんですね。
不思議なものだなあと関心していたら
なんとわたし自身もその真っ只中にあった。
なんてね(汗)

危機一髪だった。
なんとかうまくかわして展開を変えられた。
でももし、この法則を知らなかったら
どうなっていたことやら(恐)

なぜ、わたしたちは繋がりをもったのか?
出合いには意味がある。
そして縁起、縁とそこから起きる事象には
意味があるんだ。
それを解けるか、気づくかどうか。
ここがツボ、カンどころなんだね。

これは悟りなんかじゃない。
抽象論でもなんでもない。
非常に現実的なメカニズムで
それはシンクロして
私たちにサインが送られている。