あかんたれブルース

継続はチカラかな

浅い眠り

仏の顔も三度笠 (3)


仏教では、「卑下慢」というのを嫌う。
「卑下慢」があれば「増上慢」もある。
卑下しても増長しても慢心はよくない。

みんなを救う、信じるものは救われる
キリスト教のような浄土真宗ですが
ここに批判の材料がある。

それは悪人正機とか悪人成仏というものだ。

ま、拡大解釈とか飛躍みたいなもので
この薬は解毒剤です。として
だからといって暴飲暴食食べ合わせ
はてはフグを丸ごと食ったり
マムシコブラにワザと噛まれたり
キノコをイヤリングにして奥様に
囁いたりすることもないと思うのですが
そういう人も多ければ
まるで鬼の首でもとったように
太ったとか泡吹いたとか笑いが止まらない
とか意識不明だ死んじゃったとか
訴える人も多いわけです。

ここでポイントは
その悪人とはどんなものか?
煩悩に苛まれる私達人間すべてを
指すのですが、そこまで考えない。
まるで子供だ。

他力についても
そういう「私」を知るから
成立するわけで
非力である凡夫である「私」が
ちょっといい気になって
俺が俺が俺が、俺は俺は俺は、と
なんでも俺が、俺たち人間が
で解決させようとする。
そういうのを自力と解釈します。が、
結局、自力じゃ解決できない
人間では解決できない問題が現実には
たっくさーんある。

じゃあ努力はしないのか!

と怒る人がいるけれど
そうではなく
まず、己を知る。ここがスタートラインだ。

自分を知るものが
イジメやモラルハザード
パワーハラスメントなんて、できる?
もしできるというなら
そういう人は狂ってるだけだ。

自分を知らない。
知ろうとしないから、そういうことが
できるのだ。

そんだけ。

知ろうとする、勇気が大事なんだね。
それぐらいの勇気もない
弱虫が多いのだ。
嫌な人悪い奴いるよ。
実際にセコイ(利己的な)魂胆から
嫌なことを言われたりやられたすることは
多いものです。
しかし、それはそういうことをする人が
悪い人というのではなく
弱い人でしかない。
暴言暴力悪態でしか辻褄をあわせられない。

この救う救われるって法律的な救済とは
関係ありませんからね。死刑廃止論とかとは
別問題別次元の話です。

無差別殺人を行った犯人、受刑者でも
それに気づき救いを求めれば救われる。
死刑執行の直前であったとしても。

また、法律的になんら違反していない人でも
心のなかでは常に世の中を他人を
疑い憎み、自分を省みない。
(ここでもし宗教が介在した場合
 各宗教宗派が対象ぶつが
 関係するのでしょうが)
「信じない」人は、救われない。となる。

ま、わたしは何を信じるか
も気になりますが
そういうのは人それぞれで
キリストがいい人もいればイスラム教が
いい人もいればお釈迦様がいい人もいる。
仏教でも日蓮がいい人もいれば親鸞じゃなきゃ
納得しない人もいるわけだ。

別に宗教は横においてかまわないと
思うのです。
なにを信じるか?
だれを信じるか?

まず、ここなんじゃないかな。
前説・枕が長かったですが
シンクロしてるテーマのひとつは
「自信」でした。
これを的にしていいます。