あかんたれブルース

継続はチカラかな

なにを信じるのか?

仏の顔も三度笠 (5)


まず、あの世はあるかの質問は、
「ありません。」
極楽浄土も地獄もない。
科学的に考えて、物質は変化し循環する。
水は蒸発するけれど気体にカタチを
変えるだけで消滅したわけではない。
人間の肉体も死によって生命機能は停止しても
物体の質量はかわらない。土に戻る。
地球の質量は変わらないのだ。
人間が死ぬと若干重量が軽くなるそうです。
魂というものにも重さがあるのか?
では、魂は永遠として
肉体から離れてどれはどこにいくのか?

信じるものすべてを救うという
阿弥陀如来の願いの救いが
浄土往生にあるとしたら
そこは有史以来の魂だらけで
その流れは一方向になってしまう。
循環されていない。

人間が増えれば砂漠化は進み
人間は様々なものを造る。
それは原料からつくられ加工したものだ。
地球の質量はかわらない。
まあ人工衛星を飛ばせばかわるか
じゃあ宇宙のとしておきましょう。

そう考えると、輪廻は循環として成立し、
浄土思想は科学的にありえない。
と考えるが自然じゃないか。

釈迦の説法の特徴は「対機説法」という
相手(のレベル)にあわせて論法をかえる
というものだそうです。

また、三部教の「大経」「小経」「観経」
において、「大経」だけが真理であて
「小経」と「観教」には
顕彰隠密という二重構造になっていると
いわれている。

釈迦の方便とは、現代では「嘘」の弁明に
用いられますが、要はその真実に導く
論法的な手法と考えるほうが正しい。

阿弥陀如来四十八願のなかで
往生のための願いが
第十八願と第十九願と第二十願の三つ
ですが、これも第十九、二十願は方便で
真実は第十八願(信じるものは救われる)
だけなのだという。

ま、同じ仏教でも宗派によって異なるでしょうが
他力ということを念頭におけば、そういう
解釈になるんだろうと思う。
その点にわたしはなんら異義はない。

しかし、もし
この十八願も方便であって
要は「救う」という意味が
極楽浄土に導くという救いじゃなくて
その浄土自体が方便だったら?
と普通考えないものだろうか。

だって、
すべて(ほとんど)が救われるとしたら
輪廻転生と浄土往生は矛盾しないか?

また、他力往生を訴える真宗では
現生正定聚といって死をまたないで
往生が決定するとして、追善供養を実は
認めない、通夜も法事も関係ないのだ。
うちの母親なんかまったく理解していない(汗)

この救いという解釈ですが
いま世界に存在する宗教は
救済教(神と人間の二元性の関係)と
解脱教(仏と神の一元性の関係)に大別され、
仏教が他の宗教と違うのは
解脱して仏になるというものです。

世界宗教キリスト教イスラム教・仏教)
はここで救済教と解脱教にわかれますが
他力をモットーとする真宗
「信じる者は救われる」ですから
この中間に位置している。とも考えられる。

では、なにを信じるか?
おのおのの神、教えを信じるわけです。
で、そうなるとそれを信じないと
救われないとなる。一神教だけでなく
比較的寛容的な真宗でさせもこうなっちゃう。

キリスト教はそれ以外のものは
救われない。イスラム教もそれで
そこから矛盾が生じ、大義名分の
宗教戦争や世界征服の聖戦になっていく。
もともとそういう意味じゃなかったと
思うのですが考えれば考えるほどに
先鋭化していったってことですかね。
なんとも・・・

そりゃねえ各宗教宗派それぞれの
極楽浄土天国があるならそれはそれで
結構なのことですが、
人間はそれを許さない。
うち以外はみーんな地獄行きだと。

何を信じるか?

宗教に無頓着な日本人のなかの
民間信仰のなかに
神様は自分のなかにあるという思想がある。
これはバカにできない。
もともとは仏教のなかにあるもですが
神(仏)と自身(人間)の一元性という
ものがベースにあったんでしょうね。
内服されているのだと。

何を信じるかは、人それぞれ自由でしょう。
それをどうのこうのは誰も束縛できない。
ただ、どんな場合でも
自分を信じるというのが基本なんだと思う。

自分が信じれられるか?

他人のことや世間や社会をとやかくいう以前に
自分自身を信じれるか。
そういう自分であるのかどうなのか。
これ、簡単そうで結構むずかしいと思う。
それが「自信」なのだと。

勝ち癖つけて、ちょっとした成功事例の
経験で保つ条件ではなく固定観念ではなく
世間の風潮に迎合しそれを裏付けるもの
ではなくて、さ。
宗教を介在させなくとも正当に生きられる
自立があるかどうか。
それは決して自力の驕りではなく
生かされているという認識、英知を
もったものだ。
確かに人間は煩悩にまみれた凡夫悪人では
あるけれど、その塵芥からは
決して逃れられないわけで
人の哀しみ苦しみをみて心を痛めることもまた
煩悩であるわけだから
それを否定せずに、心を痛めて
なんとかできるだけのことをする愚業もまた
オツなものだと思いますけれどもね。
たとえ解決できなくとも
念仏唱えているだけじゃなく
神に祈るだけじゃなく
その人がやれることを、まずやる。
宗教というものがその助けとなるのなら
大いに結構なことですが
本末転倒になって、それに依存するのは
他力でも大乗でもない。

宗教からの影響力が比較的に薄い日本人は
長短それぞれあるけれど
卑下慢と増長慢の是正は、心掛ければ
できるものだと思う。
なんたって、自分のなかに神様が存在する
と認識できる民族だ。
個人的なことから、国際化という時代も
ふくめてそれは大きなヒントになると
思うよ。

民族主義云々ではなく
自信をもとう。