あかんたれブルース

継続はチカラかな

俺のオールに触るな。

仏の顔も三度笠 (8)


昨夜でいったん手仕舞いしようと
思っていたのですが
ちょいす姉さんからナイスなコメが
あったのでもう一本。

>自分の中の神様が正解かどうか?
>ある意味、思い込みが激しくないと
>突き進めない。
>何を信じて・・・
>結局は自分自身しかなくて。
>そんなことは、みんなわかっているけど
>それができなくて
>他に依存してしまうんだろうな~

世の中はすべて思い込みで動いている。
という言葉がありますからね。
熱愛も戦争も革命もみーんな思い込みです。

自分の中にある神様。
それを良心とするのか
としてもなんとも頼りないと不安がる。
そうだよね。一番怪しいのが自分ですから。

でもね、以前の道徳の話を思い出してみて。
これは社会(共同体)のなかでの
取り決めなわけで、常識やルール
マナーみたいなものです。

実は良心はそれも含んでもっと大きい
(逆に小さいともいえるかな?)
道徳=良心じゃないんだな。

例えば、わたしがブログでうつの人の
相手をしていると友人が内緒コメで
「うつの人の相手をしてると大変なこと
 になりますよ。自分の友達のそれで
 えらいめにあいました」
と、関わるなと注意してくれる。
この友人は悪い人ではありません。
わたしのことを本当に心配してくれている
とわたしは考える。誠実な人だ。
普通だったら黙っていたほうが無難だもんね。

彼の善意は「道徳」であり
そのなかに彼の良心も含まれる。
しかし、わたしはそれを聞かない。
その道徳(社会通念や常識論)もわかる
が、自分の良心というか気持ちが
それでは納得できないからだ。

ま、結局は彼がいうような結末には
なるんだけれど、それがわかっていても
そのとき、「はい」って止められたかな?

そんなことは百も承知でやってるわけです。
また、みんながみんなにやるわけじゃない。
なんとなくほおっておけなかった
だけの話です。
ええ?相手が美人だったから?
いやあ顔も知らないし、
他には婆さんもいれば野郎どももいたよ。


『嘆異抄』は親鸞とその門弟唯円の問答対話集
のようなものです。作者の唯円さんは、
親鸞聖人を心から尊敬、信頼していた。

「そなたは聖人の言うことを信じるか」
「はい」
親鸞の言うことに違背しないか」
「はい」
「では、人を千人殺してみないか。
 そうすれば浄土に往生できる」
そこで唯円
「千人はおろか一人も殺せません」と答えたが、
親鸞はこう戒めた。

どんなことも思う存分できるなら、
(↑思い込みのことだぞ)
千人も殺せるし一人も殺せるだろうが、
逆に殺さないからといって善意があるから
とはかぎらない。殺すまいと思って
一人も千人も殺すこともあるはずだ。
(↑環境・条件のこと。宿業の積み重ね)
われわれは、毒を消す薬があるからといって
好んで毒を飲んではならないのである、と。

この逸話には悪人正機とか
さまざまな教えが含まれていますが
要は宿業の積み重ねが善事や悪事の原因
ということで、わたしたちはこの業を
前世とか祖先から背負ったとものと考えたり
してるけれど、そんな曖昧なものではなく
それは自分の生まれてからの因果連鎖の
積み重ねと考えるのが科学的だ。

でね、唯円親鸞聖人を信じている。
浄土往生もしたい。
じゃあなぜ、一人も殺せないないのか?

ここで例の
「わかっていてもできないことがある」
を持つ出せば混乱するかもしれませんが
狂信的なカルト教団原理主義テロ組織の
信者は、やるよね。やる。

唯円と彼らの違いはなんだろう。
思い込みの強弱か?
それをいったらキリがない。

ひとつは質の問題だと思う。
そこまでして、(自分が)往生したいと
思わないのもあるでしょうが、
なにかのストッパーがかかったんだろうと。

そういうのが良心というか
心の中にある神様とか
魂の意志だったのではないかと。

道徳心だと教団のなかやテロ組織のなかでは
また別の道徳(掟やルール、価値観や常識)が
ありますからね。

自分を信じられないから他に依存してしまう
と、ちょいす姉さんはコメントしてくれた。
そう、自信がないからだ。
カルト教団の破壊活動も
過激派原理主義者のテロもこの依存から
実行に移されている。

わたしたちは大なり小なり
社会(集団)と関わって生きている(個人)。
それはどうしても拒めない。けれども
それに依存してしまうと
自分を見失ってしまう。

性善説性悪説からすれば
個人にそれをあてはめて考えれば
絶対に性善なのだ。

誰だって怒ったり恨んだり憎しんだり
したくない。嫉妬なんかしたくない。
みんなそれは社会性のなかから生まれてる。

「じゃあ社会との関係を断てというの?
 老荘みたいに世捨て人にでもなって」

違う。
「自信」というテーマだろう。
社会性と個人のバランスの話だ。
自信がないから依存するわけで
自らを信じる、魂とか良心の声に
耳を傾けられる感性があれば
そんなあてにならない常識に左右されない
のではないかということです。

この独立、自立は
決して自力の驕りじゃないと思います。

信じられる自分であるかどうか
そういうのは宿業の積み重ねでもあり
常に自分自身に誠実に向き合って
行動しているから育まれているのでは
ないでしょうか。

中島みゆきの歌に
♪その船を漕いでゆけ
 おまえの手で漕いでゆけ
 おまえが消えて喜ぶ者に
 おまえのオールをまかせるな

っていうのがありますが
自力他力以前にこういう姿勢がまず
大事なんじゃないのかな。
矛盾はしない。
解毒剤があるからと毒を飲む馬鹿があるか、
みたいなことを親鸞もいっているじゃないか。