あかんたれブルース

継続はチカラかな

駅前旅館「サライ」の宿から

許さざる社会(5)


この世でなにが一番大事かといえば
愛とこたえる馬太郎です。
なんだかんだ異論はあるでしょうが
ま、どんなに議論してもこれしかない。

「愛がなくてもお金がなければ死にます」

という人もいる。
別に死んでもいいんじゃないかと思う。
愛に死す。愛のために死ねるものならば
本望じゃないかと思うよね。
なかなかないと思うけれど。

それにほおっておいても人間は死ぬ。
金で不老不死は買えないのだ。
始皇帝をみてみんさい。

しかし仏教ではその愛を苦悩の種
煩悩として否定している。
もし、わたしが僧侶になったら
破戒僧まちがいない。
壊れたガラスの少年のような一休さん

でもさ、仏教でいうところの
愛の意味はまた違うとは思うけどね。
なんというか「苦悩」というものに
焦点をあてたひとつの考え方ではないかと。

愛は自己愛と無償の愛で成り立っている。
相反するもののようですが
表裏一体のギョウザの皮と中身
みたいな。

生きているんじゃない。
生かされている。
この違いは自力と他力に捉えかたに
ヒントがあると思います。

結局これ(他力)しかないのだ
五木寛之は漏らされたけれど
五十過ぎてようやくそうだよなあと
頷くかされるものです。
四十代の頃は金持ち爺が死ぬのが恐いか
なんて毒づいていたものだ(恥)

私たちのジレンマや矛盾や苛立ちは
この自力の固執にあるんだと思う。
たとえ普段はわかっているようなつもりでも
イザとなったら自分しか頼れないと
考えてしまうのが人間の性というもの。

それもあって
「自分だけは」という思想は根強い。

もっとひどいと
自分さえよければ、となる。
それだと自己愛に結ばれない。
ハードルを下げて、いくら誤魔化しても
そんなんじゃ愛せないんだよ。
途中で物足りなくなってしまう。
飽きるんだ。
それでもいける人は
別にそれでもいいんじゃない。かな
だいたいがそれじゃあ身が持たないものです。


子供を生み育てるプロセスには
無償の愛を気づかせる縁起がたくさん
あると思うのです。
自分のことをほおっておいても
我が子のことを大事に考える。
無償だよね。
まあなかには老後に面倒を気にする人も
あるでしょうが。

でさ、ここに「自分だけは」から
「自分たちだけは」という考えに
発展してことに気づくべきだ。
自分たち(私と子供、その家族、ときどき夫)
さえよければ。

まあ、最初の自分だけより
自分たちだけと複数なので、まだマシか?

でも、五十歩百歩だとも思うのですよね。
自分だけよりはマシではあるとしても。

こういう発想は必ずババを引くものです。
どう転んでもうまくいかないようになってる。
不思議なものですが、そうなんだな。
必ず頓挫するようになっている。

だから、己を空しくする
訓練が必要なのだ。

それを自棄とか
捨て鉢とかいう解釈は的を外してる。
「虚」じゃなくて「空」ね。
できるだけ自分のことを考えないように
する「訓練」ですよ「訓練」。
そんなに簡単に一朝一夕でできるものじゃ
ないんだ。
これがあのルイちゃんでさえわからない。
五年かけてもわからない。
なんとなくわかってきたというけれど
やっぱりわかってない。
さて、今度の今度は本当に得心したか?

人間って代物は自分のことばかり
考えているとトチ狂ってしまうものです。
だからできるだけ、普段から
自分のことを考えないようにする
「訓練」が必要なのだ。
まず、それしか手はない。

なんか小腹が空いたな
そういえば冷蔵庫に芋羊羹があったじゃないか
うっしっし、そっとこっそり自分だけ
○盗み食う夜食のスイーツ極みなし 南無
(和讃『小心偈』より)