あかんたれブルース

継続はチカラかな

わずか2ポイントのラララ

メイと二人のマリリン(3)


感性、感受性の話ね。

わたしたち人間には触覚というか
管のようなパイプのようなアンテナが生えてる。
それがオデコからなのか胸からなのかはわかりません。

それで外から内へと感じているんだ。なと

問題は、その外側の入り口と
内側の出口というかこっちも入り口になるのか?
・・・・・感受性・・・・・・・・・・・・感性
心←(内面)内======外(外界)
・・・・・A・・・・・・・・・・・・・・・・・B
みたいな、(==)こういう管です。
管の先は枝状になってるのかタンポポのような
もしくはイソギンチャクのような
そこで色々感じるわけですが
個人差が当然あります。
鈍い人もいれば鋭い人もいる。
また、意図的に鈍くしてる人もいるでしょう。

現代社会において、感性は必ずしも重要ではない
と考えられている。むしろ邪魔な存在と。
で、(B)部分を人為的に抑えようする働きが生まれる。
これが見ないようにする聞かないようにする
関わらないようにする、鈍くする働きでしょう。

それでも、個人差がありますから
シャットアウトはできません。
感性感受性の豊かな人はそうでない人に比べての
情報量は大きい。

また、過剰防衛本能から攻撃(否定)的になって
しまう場合も多いようです。
それだと世間を狭くしてしまうだけで閉塞する。

問題は量の問題ではなく(A)部分での
処理の仕方、捉え方にある。
洞察力ってやつだ。

わたしはそれをよく「相場観」という言葉に
置き換えたりします。
その情報の正当な評価ですね。
それは本当に楽しいのか否か
悲しいのかつらいのか非道いのか許せないのか否か
うまいのか不味いのか否かとか
当然そこには個人差はあるとしても
基準はあってしかるべきですが、
多様化という言葉で納得できないのは、
その個人差が個人の尺度ではなく
一般常識や時代性、それに影響される価値観といった
普遍的な一般論に支配されている点にある、と。

やたらと細分化して曖昧に拡散する
不毛な知的作業、手法を展開させる人もいる。
そういう人たちにとって
馬太郎はガサツで乱暴者と映るでしょう。
別にかまわない。

昨日までお話したマリリンなどの場合は
幼児期のトラウマによって強く影響されている。
あまり早く社会の理不尽を知るのはよくない。
このような経験
(学習という言葉ははばかれる、ましてや教育なんて)
はあまりよくない。早ければいいってもんじゃない。

人間の本質的なスタンスは
楽天的と悲観的に大別できると思うのですが
人間の「生きる力」(文科省の教育基本方針)は
楽天的が一歩リードするものであって
それに対応してるのは
悲観的ではなく現実的であるべきだ。
ここには、悲観的=現実的という誤りもあります。

それを踏まえて、理想的な黄金比率は
楽天的(51): 現実的(49)

みたいな感じですかね。

このわずか2ポイント差は大きい。
それは伊藤博文山県有朋の差であり
わかんないか(汗)
たとえば、
マリリンの母グラディス・モンロー・ベイカーと
以前話した
チャップリンの母ハンナ・ヒルの差であって
それがマリリンとチャップリンの差でもある。
どんな生い立ちであっても
このたった2ポイントですべてが変わる。
180度大変身しろなんて無茶なことはいわない。
トラウマに支配されたままではつらいよ。
怖がらずに、ほんのすこし2ポイントの勇気を出して
姿勢をただしてみよう。
赦してあげるのです。
可哀想な自分を赦してあげなよ。

泣くな小鳩よ嘆くなウサギ
その感性、感受性が悪いんじゃない。
抑えるんじゃなくて磨くのだ。
世界観をひろげるのだ。
破綻を裏切りを予定しておくことが
最善の方策ではない。

自分以外のことに夢中になってるときが
しあわせなのではないかと
しみじみと思う
イルカにのったもうすぐ54歳の少年
詠います。

三千世界のカラスを殺し主と朝から大笑い


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