あかんたれブルース

継続はチカラかな

毎朝の「あまちゃん」に学ぶ



先週後半の金・土曜日の『あまちゃん
所属事務所をクビになってペシャンコになった
アキちゃんが母親(小泉今日子)に
実家に帰りたいと懇願。
母親は自身の経験とを重ねて「ダメ!」と
厳しく拒絶する。

この場面を
感慨深く鑑賞していました。
全国の茶の間でも人それぞれ様々な思いで
この母親の在り方を複雑な思いで
受け止めたのではないかと思うのです。

愛のやさしさときびしさについて

多くの人がこう考えたと思う。
凹んでいる娘をそこまで厳しく追い込まなくても
いいのではないか。
芸能界だけが生きるすべてではないわけで
色々な選択肢があるわけで
娘はまだ若いわけだし、
もっとたくさんの可能性があるはずだ。
親として、優しく受け入れてあげるべきではないか。

しかし、ドラマのなかでこの母はそうしない。

まあドラマですから、それ以上は
追及はしないでしょうが。
後は来週の展開におまかせ。という感じでしょう。
ただし、気持ちのなかでは
この母親の頑固さが小骨のように刺さったまま
自分はそうはしない。できない
と、なんとなく記憶のなかにとどめるのかも
しれません。

この場面の設定を
娘・アキちゃんの立場から
母・春子の立場から
両方から考えてみて・・・
厳しいようでも、母親は娘に「後悔」させたく
ないという思いが強かったですよね。
それをわかっていても、そこまで厳しいと
もし万が一・・・娘が絶望して・・・
という心配が先に立つわけだ。
そして娘の途方もない不安に心を痛める。

どちらかというと、
(受けて側)娘の側に気持ちが傾いている。
でね、与える側(この場合は母親)に完璧を求める。

これは、私たちが受けて側、つまり欲求者で
与える側(他者)に多くを求めているわけです。
この場合の小泉今日子演じる母親の言動は
完璧でなくてはならない。
全国の茶の間の視聴者を納得させられる
完璧な答えなど有り得ません。
それの大多数の思いが前記した「受け入れる優しさ」
に落ち着くのではないでしょうか。

無難だから。

が、宮藤官九郎はそうはしない。というか、
そういう設定で母春子のキャラ設定してないし。

このブログではよく
現代日本人の思考の稚拙さを指摘しますが、
それを端的にいうと
「因果は認めても、その連動性を理解していない」
点をあげている。
風が吹いても桶屋までたどりつかない。
眼にゴミが入るで、お仕舞い。
だから外出するなと。

つまり、原因と結果のその単体で完結して
しまうのだ。
実際は因~果で新しい因が生まれる。
つまり、(因+果)=因
そこから因果因果因果因果因果因果因果因果・・・
と発展していく。
眼にゴミが入って按摩が増えて三味線製造のために
猫の乱獲から鼠が急増し伝染病から死者続出・・・
棺おけの需要が増えて桶屋が儲かる。わけだ


もう一点、他者に対する欲求の大きさです。
「私の気持ち」をわかってくれない
満たしてくれない、それに対する不満。

しかし、その私の気持ちってなんだろう?

その時々の「私の気持ち」に
それほどの価値があるのだろうか。
と同時に、私自身その気持ちを把握しているのか?
自分の気持ちを量りかねてその思いに
揺れているのがほとんどではないのか?
そんな戸惑いを横に置いたまま
そのすべてを誰かに託してしまおうとする。
しかもそれは自分に都合のよい
答えでないといけない。

ここにあまちゃんアキちゃんの甘さ未熟がある
わけですが、傍観者である私たちも
ついついアキちゃんに感情移入してしまい
母親の言動に「完璧」を求めてしまう。

そりゃ無理だって(汗)
ないものねだり。

これは、わたしたちが自己と他者との
対人関係における欲求不満の根源でもあり
また、他者に多くを求めすぎるという
稚拙化のあらわれでもある。

無論、それでそんなものという話ではありません。

小泉今日子だって自分の言動が正しいなんて
達観してるわけではない。
で、どうしたかというと、
単身上京するという行動を起こす。暴挙です。
愛は人間を愚かにするものです。
でもね、ここに
(因果)→因(東京に行く)が生まれる。

夜の上野、アメ横を黒いサングラスで
颯爽といく母親

かっけー!

愛はエネルギーだよなあ


わかりあえることよりも
お互いが
わかりあおうとすることが大事なのだ。