あかんたれブルース

継続はチカラかな

私たちの意外な欲求

屠られる羊たち(7)


ドラマ『半沢直樹』でその活躍から
次長から副部長は決定。いや二階級特進
なんて期待をよそに、子会社に左遷という顛末に
動揺をかくせない方々は多かったと思います。
けれども、あれは絶対の法則としての
お約束なんですね。

そして、実は私たち自身がそれを確認して
落胆と戸惑いとは別に
どこかでホッとしてたりなんかする、といったら
どう思う?

半沢直樹にそういう私たちの期待を
宿命として背負わされている。
その呪縛を解くのは・・・


恨みを晴らす
その事例を古典から遡れば
中国春秋時代・紀元前5世紀の
伍子胥(ごししょ)の「死屍に鞭打つ」復讐劇と
呉王夫差(ふさ)が薪の下で寝て
越王勾践(こうせん)が苦い肝を舐めて念じた
「臥薪嘗胆」ではなかろうか、と

楚王に父を殺された伍子胥は呉に逃れ
呉王の補佐役にまで昇進し楚を攻め落とす。
ときに憎き仇の楚王は死去していたが
その墓まで暴きその遺体に300回鞭をあてた。
なんとも凄い執念です。

しかし、前呉王が死去し夫差が後を継ぐと
伍子胥は諫言を聞き入れらせれず死を賜り、
呪いをかけて自刃した。

伍子胥の力で強国になった呉の属国になっていた越。
復讐に燃える勾践を支えたのが范蠡(はんれい)。
范蠡の知略によって越は復活し
宿敵呉国を滅ぼす。
まるで伍子胥の呪いが成就されたように。

さて、この范蠡は有頂天になった勾践を見限り
はやばやと引退し他国に亡命。
第二の人生(といっても高齢ですが)を
商人として大成功させた。
出処進退の模範の人です。

この古代中国南方の三国興亡史には
やったらやりかえすというリベンジの怨念があります。
春秋戦国時代の世のならいでしょうねえ。
中国が秦の始皇帝に統一される以前の話です。

「望」といういう字は現在では希望とか
割合に良いイメージですが、実はこれ、
王が月に隣国を亡ぼす誓いの呪いを表す文字だとか。
桑原桑原(汗)

結局、国が侵略を繰り返し繁栄しても
やがて亡んでしまう。歴史はそれを証明している。
世界史で200年以上の戦乱がなかったのは
唯一日本だけだっていいます。(平安期と江戸期)

また、この呉越の興亡には
伍子胥の個人的な遺恨を晴らすというものがある。
儒教の教えのなかで父親の無念を晴らすことは
子の義務として非常に重要なことです。
この時期、まだ孔子儒教は確立していないでしょうが
こういった父系の絶対思想と恨みを晴らす思想は
民間に広くあったんでしょうね。

因みに、中国では子供を誘拐するより
年寄り(父親)を誘拐したほうが効果があるとか。
日本じゃ逆ですね。
ま、かといってそれを愛情云々というよりも
面子とか世間体なのかもしれませんけどね。
中国で誘拐をやろうと考えてる人は参考にどうぞ。

長々と小難しい話ですみません。
いやね、半沢直樹のキャラ設定で父親の無念
その遺恨を晴らすというのが重要なキーワードに
なっていたので、なんか気になったのです。

つまり、典型的な儒教ドラマなんだなあ、と
まあ勧善懲悪の時代劇の現代版だったわけだから
それほどに、こういった発想は日本人にあっている。
無論、中国や韓国でも受け入れられるわけだ
と納得したわけです。

しかし、復讐を主眼においた者は必ず亡びる。
これを忘れてはいけませんよ。
伍子胥は自滅したのだ。
どんなに能力があっても、いやあればこそ。

ドラマ最終回で
なぜ、頭取と部長は半沢を諌めたのか。
なぜ、半沢は左遷されたのか。

それを単にドラマ続編の都合とだけ考えてはいけない。
そこには絶対の理由があって、それは原作者も
知らず知らず守らねばならない鉄の掟
いや歴史の絶対の法則があるからです。

なんで原作者がその禁を侵せないかというと
その番人が私たち読者・視聴者だからです。
そういうのが遺伝子のなかに刻まれているんだ。
だからあの結末は意外でもなんでもない。

もうひとつ、なんで『半沢直樹』や『七つの会議』は
会社(組織)に固執するのか?
これもまた、儒教の影響です。

意外ですよね。儒教のじゅの字も知らないような
現代日本人の私たちが知らず知らず
そういうお約束のなかで
生きて生活し納得してるなんて。