あかんたれブルース

継続はチカラかな

狭い了見のナルシストの死

ミネルヴァの焼豚(5)


ミーハーな話で恐縮ですが
先週のバラエティー番組で沖雅也の自殺の真相を
やっててついつい観ちゃった(涙)
もう30年も前の話ですが、当時はかなりショッキングで
「涅槃で待つ」は流行語にもなり、
いまでもわたしは何かのコメント返信では使うほど。
それと養父の日景忠男のキャラが強烈で(汗)

沖雅也の死の真相は結局は「老い」の恐怖。
その美しさが老化によって損なわれることが
許せなかったみたいです。

あれほどの美貌に恵まれたら・・・と
考えればわからないでもないけれど、でもさ
グラビアアイドルとかじゃなくて俳優男優であったら
年齢を重ねることで深みや渋みや男の色気って
醸しだされるんじゃないのかなあ・・・

いまオンエアされてる保険のCMで
V6の岡田准一が20代の自分に
30代、40代、50代の未来の自分が現れて
あれこれアドバイスをするというのがあります。
岡田君はわたし同様超イケメンですが
40代、50代の岡田君もわたし同様にかっちょいい。
なんで沖雅也はそういう自分をシュミレーション
できかなかったんだろうか?

ま、老いに対する悩みは
釈迦が出家する理由のひとつですから
古典中の古典なんでしょうが
それを死で是正させようというのは本末転倒。
科学哲学的ではない。
結局、沖雅也は世界観が狭かった。
もっとひどい言い方をすれば
頭が悪かったとしかいいようがない。

ふと、手元の哲学書にこんな記述があって
驚かされたのでした。
人間は生まれたときが絶頂で、あとは堕ちていくだけ
そういう自然の摂理のなかで生きている、という
イデアです。
つまりタンポポの種みたいなのが私たちだ。

中島みゆきの「彼女の生き方」にあるよね
♪そうさ私はタンポポの花~
落ちると思えば飛び上がる~ みたいなあれで
その風に舞い上がって舞い上がるのも一過性のもので
基本的には落ちている。
そして地面に到着(着地)するわけです。
これは死をも意味しますが、再生でもある。

これは東洋哲学の「易経」からいう
上がれば下がるの法則であり、
変化の法則でもあるけれど、
それを一歩踏み込めば
自然の摂理として必ず落ちていることでもある。
私たちが世の常の運不運を嘆くのはこのことを
知らないだけの無知にある。
なんかそういうとちょっと悲壮的でもありますが
別に悲観することはなく
これは生死観の捉え方だけであって
生きることと死ぬことは同等なものです。
その点と点を結ぶ間を人生という。

このアイデアを縦軸でみたとして
頭を横にして横軸で観察してみると・・・
すべてが変化する宿命的なメカニズムを有するなかで
それを発展のプロセスと考えれば
それは直線的に発展しません。
必ず失敗や挫折という後退を余儀なくされる。
水前寺清子の「365歩のマーチ」にあるように
♪一日一歩三日で三歩 三歩進んで二歩下がる。
のあれだ!(作詞 星野哲郎

株式罫線でも必ずそういう折れ線を描いて
上昇したり下降するものです。

私たちがよく「取り返しのつかない」挫折感を
味わうのは、その目論見の破綻に対することであって
要はその皮算用がその通りにならなかったという
だけの取り返しのつかない落胆なわけだ。
したがって、実は
それ自体の発展にはなんら影響はない。
むしろ発展のプロセスは一歩前進してると考えたほうが
正しいのかもしれない。

ここで注意しなければならないのは
楽天主義と御都合主義は違うということ。
ましてやぺシミステックなんて論外。
その現実に誠実に向き合うものだけが
正当な恩恵を得られる
だけの話なのかな、と思うのでした。
わかった?
難しい?

こういう発想って救われると思うけどね。
気休めではなく、科学的な認識としての
アプローチとしてね。



煮詰まるのはまだ早い。