反対のオリンピック
豚カツと思うな思えばチキンカツ(6-2)
まあ、心配症というか
ひねくれた自己顕示欲というか
頭が悪いといえばミもフタもありませんが
ツッコミ入れるんだったらもっとキレのある
なるほど、と唸るようなのが欲しい。
また、それに納得してしまう傑作ぽち(古)
するお調子者にも困ったものだ。
では、具体的にドラスティックにいきます。
(1)知能と人格は一致しない。
これはこれまでの学力重視から
二次試験をなくして面接や内申評価などから
人柄人格を重視する、ということに対する懸念。
しかし、知能とはなんだ?
ペーパーテストや偏差値が=知能だろうか?
その一点刻みの評価に問題があるとして
改善しようとしたわけです。
つまりその弊害に対する是正策だ。
だいたいなんのために大学に進学するのか?
学力調査を全廃するなんてどこにもない。
この知能と人格の不一致はまったく
理論の飛躍としかいえないインチキ論法だ。
そういう詭弁を真に受けないように。
これまで、
偏差値とかがコンセンサスにされていた。
これが大学側の惰性、手抜きだった。
その結果、有望な逸材を見逃してきたわけです。
また、企業側の採用担当者も
出身大学・学部をコンセンサスにしてきた。
その結果、よい人材が集まらなくなった、
わけです。
なにが問題なのか。企業は学校のせいにする。
大学は高校のせいにして高校は大学(受験)の
せいにしてきたわけです。
現行の入試制度に問題があったと
ようやく認め、動かざるおえなくなった。
では、その査定の比重を大きくした人格って?
これをいい人と解釈しちゃあいないか。
そんなもので、合格採用するほど
要領のよいだけで世渡りできるほど
世の中甘くはない。
(それがコミュニケーション能力ではない)
もし、それが横行したら
その人事担当者の能力が疑われ
また、大学、企業は、潰れる。
それはもう、偏差値がコンセンサスにならない
職人でいえば素材の目利きを問われている
ということです。
それは同時に、
高校の教師の評価能力にもつながる。
とはいっても、人間がやることですから
個人的な能力差や好き嫌いもあるでしょう。
それはあってもいいんじゃないの
誰がそれをフェアに完璧に評価できるのか?
神様じゃないんだから。
そこで、出るのが
(2)ペーパー試験査定の公平さ
この信奉は日本の近代化から
あった妄信です。
その第一弾は、維新後の薩長閥に対する
不平からで、陸軍士官学校・陸軍大学
海軍兵学校・海軍大学からの改正で
ペーパー試験重視となりました。
明治生まれからの傾向ですから
明治17年、18年組からでしょうかね。
海軍は薩摩閥、陸軍は長州閥が幅をきかせていた。
ただし、海軍は山本権兵衛の尽力で
比較的是正されてはいましたが、陸軍は酷かった。
それがこのペーパーテスト導入で
大正期にようやく一掃されます。
(法王山県有朋の失墜)
で、その結果どうなったと思う?
陸軍参謀本部のエリート意識が
(海軍の軍令部も似たようなもの)
あの日中戦争、太平洋戦争に暴走したともいえる。
別に藩閥を擁護してるわけじゃないんですよ。
試験偏重で集まるエリート意識には
そういう危うさがあるということです。
誰よりも頭が良いと自負してるわけです。
そういう意識は驕りを招くという弊害がある。
それから戦後の民主主義のはき違えです。
平等意識の履き違えかな。
それぞれ個性というものがあって
それを横並びにみんな平等とするのは
比べる尺度が違う。
それじゃ個性はどこにいってしまったの?
学力、学歴が、権利とか利権になってる。
日本のホワイトカラー信奉の迷信です。
ホワイトカラーっていうのは基本的に
文系・事務職ですからね。
生産性がないのだ。
日本は敗戦で人材不足に陥った。
そこで、高校普通科をたくさんつくって
準大学生の事務屋を量産したのです。
昭和40年まではそれでもよかったんですが
それがそのまま現在までずーっときている。
大学も増えるし大学生も増える
別に大学出たからって、なんてこともない時代
いやむしろ、大学ぐらい出ておかないと不味い
という風潮で取り合えず進学はするけれど・・
就職先がない。
なぜか。そりゃあ需要と供給の関係で
そんなホワイトカラーなんて社会が必要と
しなくなったからだ。
経済の根幹は「流通」ですからね。
文系・普通科・ホワイトカラー・事務屋なんて
もうお呼びじゃない。
そういう現実よりも
公平さという原則論を重視するのだけれど
実社会で公平なんて、有り得ないわけです。
まさかAKBみたいにジャンケンで決めるか
それとも商店街の福引みたいにガラガラポン?
現行改正案が十全とはいわないけれど
現状の弊害を是正しようというときに
そういう重箱の隅をつつく理論の飛躍
すり替え論法じゃあ、まず納得できない。
(3)良い子を演じる懸念
在学中、面接時に良い子を演じる要領のよい
生徒が評価され、オタクみたい不器用な子は
評価採用されないと心配する。
その良い子、良い人とは何か?という
問題は先もふれましたが
ま、良い人であれるんだったらいいんじゃない。
ここまでモラルハザードが蔓延して
世知がない社会になってしまって嘘でもいいから
良い人で蔓延させてほしいものだ。
良い人でもないのに良い人を演じたら
そのうちメッキも剥がれるでしょうし
なんにしても本人さんが精神的に
参ってしまうんじゃなかな。
そういう人たくさんいるじゃないですか。
体壊して人生棒にしてまで
やるかどうか、それこそ知能の問題だ。
ま、それはそれとして
そういう良い人ってだけで
これからの大学が、企業が採用すると思う?
オタクだって、使える、有望と思えば取ります。
それが資本主義の原理だ。
問題はそのセールスポイントじゃないか。
とにかく、こういう批判者の文面を見てると
矛盾が一杯です。まったく整合性がとれていない。
そのへんをよ~く読み取ってみてください。
知能以前のバカ化している。
これが日本の学力の現状だ。
まあ、心配症というか
ひねくれた自己顕示欲というか
頭が悪いといえばミもフタもありませんが
ツッコミ入れるんだったらもっとキレのある
なるほど、と唸るようなのが欲しい。
また、それに納得してしまう傑作ぽち(古)
するお調子者にも困ったものだ。
では、具体的にドラスティックにいきます。
(1)知能と人格は一致しない。
これはこれまでの学力重視から
二次試験をなくして面接や内申評価などから
人柄人格を重視する、ということに対する懸念。
しかし、知能とはなんだ?
ペーパーテストや偏差値が=知能だろうか?
その一点刻みの評価に問題があるとして
改善しようとしたわけです。
つまりその弊害に対する是正策だ。
だいたいなんのために大学に進学するのか?
学力調査を全廃するなんてどこにもない。
この知能と人格の不一致はまったく
理論の飛躍としかいえないインチキ論法だ。
そういう詭弁を真に受けないように。
これまで、
偏差値とかがコンセンサスにされていた。
これが大学側の惰性、手抜きだった。
その結果、有望な逸材を見逃してきたわけです。
また、企業側の採用担当者も
出身大学・学部をコンセンサスにしてきた。
その結果、よい人材が集まらなくなった、
わけです。
なにが問題なのか。企業は学校のせいにする。
大学は高校のせいにして高校は大学(受験)の
せいにしてきたわけです。
現行の入試制度に問題があったと
ようやく認め、動かざるおえなくなった。
では、その査定の比重を大きくした人格って?
これをいい人と解釈しちゃあいないか。
そんなもので、合格採用するほど
要領のよいだけで世渡りできるほど
世の中甘くはない。
(それがコミュニケーション能力ではない)
もし、それが横行したら
その人事担当者の能力が疑われ
また、大学、企業は、潰れる。
それはもう、偏差値がコンセンサスにならない
職人でいえば素材の目利きを問われている
ということです。
それは同時に、
高校の教師の評価能力にもつながる。
とはいっても、人間がやることですから
個人的な能力差や好き嫌いもあるでしょう。
それはあってもいいんじゃないの
誰がそれをフェアに完璧に評価できるのか?
神様じゃないんだから。
そこで、出るのが
(2)ペーパー試験査定の公平さ
この信奉は日本の近代化から
あった妄信です。
その第一弾は、維新後の薩長閥に対する
不平からで、陸軍士官学校・陸軍大学
海軍兵学校・海軍大学からの改正で
ペーパー試験重視となりました。
明治生まれからの傾向ですから
明治17年、18年組からでしょうかね。
海軍は薩摩閥、陸軍は長州閥が幅をきかせていた。
ただし、海軍は山本権兵衛の尽力で
比較的是正されてはいましたが、陸軍は酷かった。
それがこのペーパーテスト導入で
大正期にようやく一掃されます。
(法王山県有朋の失墜)
で、その結果どうなったと思う?
陸軍参謀本部のエリート意識が
(海軍の軍令部も似たようなもの)
あの日中戦争、太平洋戦争に暴走したともいえる。
別に藩閥を擁護してるわけじゃないんですよ。
試験偏重で集まるエリート意識には
そういう危うさがあるということです。
誰よりも頭が良いと自負してるわけです。
そういう意識は驕りを招くという弊害がある。
それから戦後の民主主義のはき違えです。
平等意識の履き違えかな。
それぞれ個性というものがあって
それを横並びにみんな平等とするのは
比べる尺度が違う。
それじゃ個性はどこにいってしまったの?
学力、学歴が、権利とか利権になってる。
日本のホワイトカラー信奉の迷信です。
ホワイトカラーっていうのは基本的に
文系・事務職ですからね。
生産性がないのだ。
日本は敗戦で人材不足に陥った。
そこで、高校普通科をたくさんつくって
準大学生の事務屋を量産したのです。
昭和40年まではそれでもよかったんですが
それがそのまま現在までずーっときている。
大学も増えるし大学生も増える
別に大学出たからって、なんてこともない時代
いやむしろ、大学ぐらい出ておかないと不味い
という風潮で取り合えず進学はするけれど・・
就職先がない。
なぜか。そりゃあ需要と供給の関係で
そんなホワイトカラーなんて社会が必要と
しなくなったからだ。
経済の根幹は「流通」ですからね。
文系・普通科・ホワイトカラー・事務屋なんて
もうお呼びじゃない。
そういう現実よりも
公平さという原則論を重視するのだけれど
実社会で公平なんて、有り得ないわけです。
まさかAKBみたいにジャンケンで決めるか
それとも商店街の福引みたいにガラガラポン?
現行改正案が十全とはいわないけれど
現状の弊害を是正しようというときに
そういう重箱の隅をつつく理論の飛躍
すり替え論法じゃあ、まず納得できない。
(3)良い子を演じる懸念
在学中、面接時に良い子を演じる要領のよい
生徒が評価され、オタクみたい不器用な子は
評価採用されないと心配する。
その良い子、良い人とは何か?という
問題は先もふれましたが
ま、良い人であれるんだったらいいんじゃない。
ここまでモラルハザードが蔓延して
世知がない社会になってしまって嘘でもいいから
良い人で蔓延させてほしいものだ。
良い人でもないのに良い人を演じたら
そのうちメッキも剥がれるでしょうし
なんにしても本人さんが精神的に
参ってしまうんじゃなかな。
そういう人たくさんいるじゃないですか。
体壊して人生棒にしてまで
やるかどうか、それこそ知能の問題だ。
ま、それはそれとして
そういう良い人ってだけで
これからの大学が、企業が採用すると思う?
オタクだって、使える、有望と思えば取ります。
それが資本主義の原理だ。
問題はそのセールスポイントじゃないか。
とにかく、こういう批判者の文面を見てると
矛盾が一杯です。まったく整合性がとれていない。
そのへんをよ~く読み取ってみてください。
知能以前のバカ化している。
これが日本の学力の現状だ。