あかんたれブルース

継続はチカラかな

ダサイオサムは恥しい



若い頃、太宰治にハマッタ人は
多いのではなかろうか。
わたしも16から18ぐらいの二年ほど

恥の多い生涯を送って来ました。か(笑)

五十を過ぎてどうしたことか
太宰を読み返してみたくなった。
数年前映画化されたときにはちっともそんな気は
おきなかったのになぜだろう?

太宰を読み返してみたいと思ったら
井伏鱒二芥川龍之介も読みたくなった。
愛された男と憧れ嫉妬した男

井伏鱒二は太宰の恩師にあたる人だ。
それなのに
太宰の遺書の最後に「悪人」と記されている。
そのことをネットの質問コーナーでは
「今でいえば統合失調症みたいな人」で
支離滅裂だからとバッサリ。
あっさりしたものだ。

最近の若い世代の論評にはこういう
バッサリ系が多いですよね。
これじゃあ太宰に傾倒する人も
少なくなってしまうわけだ。
まあいいんですけどね、太宰なんかに
傾倒なんかしなくとも。
ただ、太宰のいうこの「悪人」という
言葉に託された愛情表現は察しても
損はないような気がするけれど。

井伏鱒二は『山椒魚』ぐらいしか知らない。
それも中学のときの国語の教科書にあった
くらいのものです。
しかし、たぶん、きっと閉所恐怖症の気がある
わたしには悶絶するシチュエーションで
ふと妄想悪夢から醒めて
あああ、山椒魚でなくてよかった(汗)
と胸を撫でおろすものでした。

これは幼少期に近くの海岸を物色中に
岩穴に閉じ込められているデカイ蟹を何度も
目撃しているからだとも思います。
あああ、蟹でなくてよかった(汗)


傾倒といえば太宰が傾倒した芥川龍之介
あまりに傾倒しすぎて
太宰は芥川賞が欲しくて欲しくて仕方なかった。
芥川龍之介かあ
最近はネットの青空文庫で読めるんですね。
蜘蛛の糸とか杜子春とかは
日本人にとっての強烈な判子注射になったのでは
ないかと思います。

太宰治の作品からそういう類にあたるもの
走れメロス人間失格なんでしょうねえ。

メロスは激怒した。

統合失調症」という評が的を射ているか
どうかはちょっと疑問ですが
なんか定まらない持てあました
めんどくさい男だったんだろうああ
とは思う。
司馬遼太郎乃木希典をなんぎな人やなあ
と感じたように。
モラトリアム世代にとって
そういう太宰は魅力あるんでしょうね。

そうか太宰も芥川龍之介乃木希典
自殺した人たちなんだな。
漠然とした不安かあ

三人とも三者三様の憂鬱があった。
統合失調じゃねえよ!

太宰治は「文化」に「ハニカミ」というルビをふった。
文化は教養、知性とも同じ。
日本人には独特の恥の文化というものがある。
そうなるとよけいにハニカムわけだ。
太宰治って人は、
「今でいえば統合失調症みたいな人」
と、バッサーと言い切られてしまうトレンド
そこにはハニカミも文化もないわけだ。

「大人というものは侘しいものだ。
 愛し合つていても、用心して、
 他人行儀を守らなければならぬ。
 なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。
 その答えは、なんでもない。
 見事に裏切られて、赤恥をかいた事が
 多すぎたからである。」

「大人とは、裏切られた青年の姿である。」


わたしゃいまさら太宰なんて読み返して
どうのこうのなんて思わないけれど
まあこういうハニカミみたいなものは
ずっと残しておきたいね。
それはさ、裏切られて赤っ恥をかかない
用心のためとかじゃなくて
ただ僕が愛しく恥しい、だけ(汗)

キッパリサッパリバッサーッとはカッコイイ
のかもしれまいけれど、それができないんだな。

「私には、誇るべき何もない。
 学問もない。才能もない。
 肉体よごれて、心もまずしい。
 けれども、苦悩だけは、
 その青年たちに、先生、と言われて、
 だまってそれを
 受けていいくらいの苦悩は、経て来た。
 たったそれだけ。
 藁一すじの自負である 」『富嶽百景』より

なんというか
吉行淳之介の「一流の劣等感」みたいな
響きがありますが、この「一流」というのが
気に入らないと野次が飛ぶ。うんざりだ。
ふと過ぎる憂鬱さえも許さない
そういう時代が
息苦しくさせているんじゃないか?

最後まで甘えられた井伏鱒二は大人だと思う。
太宰にとっては悪人だったのだ。
「サヨナラダケガ人生ダ」
世の中には甘える人と甘えられる人がいる。
そういう人たちは幸せだね。
そういう相手がいない人生って侘しい。

そしてハニカミながら
なるでけ謙虚に
恥の多い生涯を送って往くのだ。

カッコよくなくたっていい。
ダサくて結構じゃないか。
「教養のないところに幸福なし。
 教養とはまず、ハニカミを知る事なり」