あかんたれブルース

継続はチカラかな

血の色と臭いと量

I&U研究所(残酷な話-2)


「残酷」というものの
その判断基準というものを考えています。

だいぶ以前の話ですが
映画好きで問題意識の強い女史がいて
女性差別を是正する媒体の仕事を
一緒にやっていました。パートナーだった。
彼女から発展途上国でいまだ行われている
残酷な風習について聞かされたものです。
たとえば、女性器を針と糸で縫いつけるとか。

彼女もバリバリのフェミニスト
わたしはときどきその正義感についていけず
苦笑いすることもあって、共通の話題
たとえば、映画の話をよく持ち出すのですが
彼女の映画の趣向というのが
アジア映画とかいった類のもので・・・
(もちろん踊るマハラジャなんかじゃないよ)
その頃わたしはとんとそういったものよりも
俗な日本映画にどっぷりこんだったので
まあそう力まずに一度東映実録路線の
仁義なき戦い』でも観たらどうだろうと
奨めてみましたところ
「そういった残酷なのは生理的にダメ」と
あえなく却下されました(笑)。
ドスで刺されるシーンがダメだそうです。

残酷ねえ・・・

そのとき何ともいえない矛盾を感じたのですが
まあ女性にそういうのを強要するのも変なので
(わたしはフェミニストよん)
それはそれでそこまでの話だったのです。

血が苦手な人って多いですよね。

医者とかなる人で初めて手術に立ち会うと
気分が悪くなるとか卒倒するとか
ありますよね。

中学生の頃に地元の漁協で中国物産展を開催してて
そのなかで中国の針麻酔の記録映画をやっていた。
腹部を切り開いてる患者が針麻酔でまったく
痛みを感じない。モロのグロい映像。
それを立証するように
手術中に桃の缶詰を美味そうに食べてる。
変なコントラストでした。ミスマッチというか
なんか異様だった。

わたしの地元は漁港で鰹節の名産地です。
町の多くが鰹節製造場を営んでいた。
クラスメイトの3割がそういう家の子。
彼らは小学校四年生ぐらいになると
親の手伝いで踏み台にのって
デカイ包丁で鰹を捌きます。
新鮮だから血も流れるわな。
町の下水の溝は真っ赤になって海に流れていく
血なまぐさい町でした。

真っ赤に流れるドブ川はまるで
地獄絵図、そのものでした。
そんなわけかどうかわかりませんが
わたしは血には割りと平気なほう
なのかもしれません。

残酷ってなんだろう・・・

鯨やイルカは哺乳類だからという理由で
捕獲・漁の禁止や規制がなされています。
それに別段異論を唱えようとは思わないのですが
問題は「哺乳類」にあるのだろうか?

であれば、

と、次には鮪はどうなるの鰯や秋刀魚はどうですか
それ以外のオケラだってカエルだってアメンボだって
となってゴキブリまで極論ジャーは巻くし立てる。
また切り返しすれば
じゃあお前等が食ってる牛はどうなんだよ。
あれは立派な哺乳類じゃないかとなるだろう
実際そう喚いている。
確かに言い分としてはその通りでも
そんな正論で話などつきません。

そもそもこれは
哺乳類だから、という最初の理由の
カードの出し方が不味いのだ。
そのボタンの掛け違いが不毛の論争を生む。

そんなことは関係なく
問題は「血」にある。とわたしは思う。

その分量といってもいいし
それに比例しての体のデカさにもある。

鯨>イルカ>鮪>鰹>秋刀魚・鯵>しらす

しらすを可哀想なんていう人は聞いたことがない。
釜茹でだぞ。しかも稚魚だ、赤ちゃん(涙)

私たちは血に反応しているんだ。
イルカ漁のときの真っ赤に染まる海だ。
鯨の背に刺さったモリから噴出する血に
痛みを感じている。感情移入しているんだ。

それをバカにする人もいるけれど
そういう感性は別に変じゃない。当然正当だ。
正常な神経といっていいのかもよ。

問題は、じゃあ家畜はどうなるかとなったときに
(1)聴こえないふりするか屁理屈で
力業で胸を張る。ハッタリともいう。
(2)だから肉を拒絶して菜食主義を押し付ける。
開き直りかな?

そういうことをいうと極論ジャーは
「植物だって!」と絶対に逃しはしない。

まあこんな稚拙な論争は論外場外乱闘なのですが。
わたしはどっちの味方でもない。
そんなことよりも
私たちはこの現代という社会環境のなかで
血に対する耐性が薄れていてきていると思うのだ。

たとえば、
動物性タンパク質を摂取するために
現在は魚屋や肉屋といった(対面販売)場から
スーパーなどでパック詰めされた「加工」商品
としてそれを購入するので、
その原型がどんなものだったかの想像力が
欠けていってる人が多いそうです。
ちょっと信じられいのですがマジみたいです。

魚だって三枚に捌いたり刺身にすれば
新鮮であればあるどほ血も出るわけですが
そんなものを目撃する場が極端に減っている。

昔みたいに各家庭で鶏など飼っていたりして
今日は特別な日だからシメて御馳走だ、とか
ドイツ人の田舎の家庭で豚をツブしてソーセージ
なんて文化もありません。

そういった無菌の温室で育ってきた人間が
急に大量の血を目撃すれば、動揺するでしょう。

残酷だ! って

それは感受性として、当然のことだと思うのです。
これは、慣れというものを
推奨しているんじゃないですよ。
刺激が強すぎたわけだ。
これは初めてコーラを飲んだわたしら世代が
卒倒したファーストコンタクトと同じ。
また、ここには人間の本性にある
「過剰」の足枷の問題も潜んでいる。

そこから、
血=残酷という図式が生まれたんじゃないか
と。

人間は血に反応するんだ。

それは、
その血から、自分の血を連想するのかもね。
だからそれは正当な感性だと思うよ。
稚拙ではあるかもしれませんが
たとえそれが四足であっても哺乳類であってもだ。

ここで、再度
「残酷」ってなんだろうと考える。

血が出ても、同じ人間であっても
まったくそういうことに感受性を働かせない
そういう人間もいる。
そこには思い込みとか力業やご都合主義がある。
たとえば、人種というもの、民族というもので
それを納得させる(「差別」)思想です。

かつてアメリカであった黒人奴隷を
家畜とみなす思想もそれだし
ユダヤ人差別などもそれだ。
それはいまだに健在でもありますけどね。

そんな白人至上主義のなかから
広島長崎に原爆を落す、その場合に、
日本人が黄色人種という別人種だから
あのような残酷な実験は実行できたのだ
といわれる。
これは、そうだと思う。
もし日本人がアングロサクソンだったら
そんなことはできない。なぜならば
選挙がありますからね。
つまり大統領の良識というよりも
アメリカの有権者の感情の問題があるからだ。


「屠殺」は残酷なのか?

と問われれば、それを否定はしないけれど
ではその残酷ってなんだろう。
もし、そこに血が出なければ少しは違うのか?
その屠殺以前に
もっと残酷なことはないのだろうか?

私たちは残酷さというものを
履き違えているのではないだろうか。
また、この矛盾を菜食主義で一発解決させよう
なんていうのも間違っている。
それとベジタリアン諸君よ
その野菜や穀物だって危ないんだぞ。
マジで食うものなくなる。
あっと今に崖っぷち。

意地悪をいってるんじゃない。
原発運動と同じで手法が間違ってる。
なにか根本から考え違いをしている。
それは「経済」とか「現実」とかで
言い訳できない根本的な問題なんだと思います。


要は
「生死観」の問題が抜け落ちているんだよ。