あかんたれブルース

継続はチカラかな

武士は食わずに多寡イビキ

I&U研究所(残酷な話-3)


最近の殺人事件で、よく「死因は失血死」と
耳にするようになりました。
正式には出血性ショック死ということで、
人間はショックで死ぬのですね。
出血多量という量的な概念ではなく、人間は
心因的なショックで死ぬ。

それを考えれば、日本の切腹という自刃文化は
非常に効率の悪いものです。だから介錯を必要とする。
だから切腹は作法なんでしょうね。
切腹ではなかなか死なない。苦しむだけ。
腹一文字にかっさばける人ってそうそう
いないのだそうです。

昔はテレビ時代劇でも切腹シーンをよく
細かく詳しく表現するものでした。
わたしたち世代はその御蔭で切腹の作法を
マスターしてるほどですもの(笑)。

赤穂浪士などは切腹で始まり切腹で終わる。
わたしの個人的な切腹の強烈な作品は
小林正樹のズパリ『切腹』で
これは竹光で切腹を強要させる痛そうな残酷な作品。
時代劇ではありませんが大西瀧次郎の自刃を
クライマックスとした『あゝ決戦航空隊』も
凄かったです。もう血の海です。

切腹の残酷さを理解するのに
幕末に起きた堺事件という土佐藩士による
フランス水兵殺傷事件がありまして
これに関与した二十名の土佐藩士が
被害者側のフランス人(軍艦乗務員)の
立会いのもとで執行されたのですが
そのあまりの残酷さに、十三人目で執行中止を
フランス側がもとめたほどです。
団鬼六の短編集にそのくだりが描かれております。

外国人はこの「ハラキリ」がさっぱり理解できない
とても残酷で野蛮なサムライの作法だったのだ。
現代人の我々だってそれを目の当たりにしたら
そうなんじゃないかな。

大隈重信不平等条約改正に反対し
その暗殺を目論む来島恒喜が親友の杉山茂丸
武士の自刃の作法を問うのですが
茂丸は切腹などは見苦しいだけといい
耳下の頚動脈を断つ完全なる自刃法を伝授する。
木島は(手投げ爆弾による)大隈襲撃を決行すると
見事にその通りに自刃して果てました。

切腹はあくまでも作法でしかなく
死に至るには「介錯」を必要するのですね。
介錯とは首を斬るサポーターのことです。

切腹だけじゃ・・・苦しむ・・・のだ。
ただし、介錯は上手な人がいいです(汗)。

ところで、介錯の首を刎ねるという風習は
アジア南方からの風俗みたいですね。
日本人は首狩族の末裔なのかもしれない。
刺青の中国南方の「呉」あたりから来てるようです。

そういうことは西洋人には
理解できないのです。野蛮!っと。
そういう国だから不平等条約治外法権)を
結ぶ動機になったということもある。
クリスチャンじゃない奴らと対等にできるか
というわけです。

残酷という話の流れから続いているのですが
要は動物愛護の方々が訴える非道のなかの
ベトナムの祭りで豚を真っ二つにする行為を
やめさせようという運動について
確かに画像で観れば残酷ではあるけれど
それを外国人である我々がとやかくいうのは
僭越ではないかという、そこからです。

あれは、祭りの生贄なんだよなあ

秋も深まりコンビニなんかにいくと
おでんと一緒にレジ横に中華の誘惑がある。
うちの所長も551蓬莱の豚マンが大好きです。

さて、あの饅頭っていうのの由来は
生贄の首なんだな。頭ってあるでしょう。
三国志で蜀の諸葛亮孔明が遠征したときに
氾濫した川を沈めるために兵士を人身御供する
それを孔明が非科学的な蛮行をやめさせた。
その代わりに豚などの
肉で豚饅頭を作って御供えしたのが始まり。

生贄は最初は人間だった。
それは日本でも外国でも同じだよ。
日本むかし話にもそういうのはたっくさん出てくる。
西洋でも生贄を捧げておったがな。

わたしは太平洋戦争で特攻隊として散った
若者をその地元の人たちが賛美して
立派な墓をたてたこの夏のドキュメンタリーを
鑑賞しながら、これじゃ生贄だなと思った(汗)。

宗教とか信仰の、儀式というものは
現代人からすれば残酷なものに映るものでしょう。
わたしは別にイルカ漁を観てそこに
宗教的な崇高さなど感じません。
ただ、その地元の人たちには
大事なものなんだろうと。
わたしはイルカ食わないしね。
そう食いたいとも思わないし。
関係ないわけだ。

私たちは食料事情が乏しくて鯨をよく食べました。
懐かしの学校給食でも鯨の竜田揚げは
いまでも上位にランクする。
いまでも鯨の缶詰に食指が動く。これが高い!
居酒屋の定番メニューだった鯨ベーコンも高い!
それでも食べたい。でも、
でも、それでも、ダメというのなら他に
鶏でも豚でも牛でもあるから我慢はできる。

しかしこれって我慢で済むことなのかなあ・・・

見なければ残酷ではないのか?
それってズルじゃないの?
だからって食肉を拒絶すのは、違うような。
それとも殺し方の問題なのか?