あかんたれブルース

継続はチカラかな

デュシャンの便器じゃ満足できない

うつろいやすいのは世の常(7)


このシリーズで有意義だったのは
世間でいわれている「うつ病」が実は
躁鬱病であり、
それはそもそも最初はそうだったのに
1960年代頃から「うつ病」を
躁うつ病、躁病から独立させ
最近では躁うつ病双極性障害としています。
なんかねえ・・・

さて、このうつ病躁鬱病)は
分裂症(現・統合失調症)から枝わかれ
したものです。それが1899年だ。

これには産業革命の影響があると考える。
大量生産社会が人間のアイデンティティーを
構築するのに障害となった。
たとえば職人の自信喪失だ。

マルセル・デュシャンの便器の芸術だよ。

で、そのオオモトの精神疾患である
分裂症をみていれば
「早発性痴呆症」と定義されていたようです。

痴呆症・・認知症・・・
こういうのを老化とイコールもしくは比例して
と認識していましたが、「早発性」として
昔はそういうふうに判断してたのですね。

これに森田正馬狐憑き(狗神憑き)を調査して
精神疾患の本質をさぐろうとしたことは
とても興味深く
その結果、彼はドイツ医学と決別した。

さて、一見まったく違う痴呆症と躁鬱病ですが
わたしは経験上、初期の痴呆症の症状が出た場合
(物忘れ勘違い的外れ思い違いなど)
よっぽど大事な人でという条件付で、それを
指摘したとします。「しっかりしてほしい」から
すると相手は、しれーっとしている。
知らん顔してるもんね。聞けないフリ。
この傾向が不思議でしょうがなかった。
その人だけじゃないんです。だいたいこうだ。
とまあそういう経験と

双極性(躁鬱)障害の人に躁状態での奇行を
指摘注意した場合(これもよっぽどの親しい関係)
これまた、しれーっとしている。
まずそれを認めない。

よくうつ病の人が不幸自慢で
みんなが去っていくと嘆きますが
そこにまったく出てこない
「去るには去るなりの原因(事件)があった」
が出てこないのと同じだ。

また、君もよく知ってると思うけれど
わたしのところに集ってきたうつ病系の人はたちは
みんな自爆して姿を消していった。
わたしの方からアプローチをかけたことは
なかったじゃないか。
あれは躁状態の暴走であって
身を修めきれなかったわけです。

実際に欝状態のときに何に悩み苛まれているのか?
そこにも大きく関係すると思うのですが
ここに「自己肥大化」があるのは確かだ。

当然、社会環境のせいも大きい。
こういう劣悪な環境で精神を病まないほうが
どうかしてると思うので
わたしはそういう健気な弱者には寛容なほうだ。
ところが、
一転それが躁のスイッチが入って暴走し
刃物を振り回して暴れだすと
他人だけではなく自分も傷つけてしまう。

対して、周囲は戸締りして二階の窓から
「それでいいのですあるがままに自分らしく」
なんて気持ち悪い作り笑いをしてるもんね。

で、親しくてほおっておけない関係
という条件で
わたしがノコノコ近寄って
「危ないからやめろ」と包丁を取り上げると
その言い方が不味いとか横暴だとか
否定した肯定してあげなきゃだめとか
訳のわからん文句をいいだす。
振り向くと二階の傍観者どもが騒いでいる。

狂ってるのはお前等じゃないか!
と考えるわたしはマイノリティーです。
なかに良心的な友人がいたとすれば
「ああいう手合いに関わっただめですよ」
と注意もしてくれますが
なんとも情けない話だ。
ま、これも劣悪な環境のひとつです。

人間というものは相対的にしかものを考えない。
喉から手が出るほど欲しいのが
アイデンティティーというものだ。
それがないから不安や怖れに苛まれる。
それが簡単に得られる方法があるとしたら
否定できる人間を否定することで
自身を肯定することだ。
双極性の人が親しい理解者
たとえば家族とか友人とか恋人とかを
否定し攻撃するのはそのためだ。
悲劇はそこにあるのに
誰もそのことを指摘しようとはしない。
いつまでそういう不毛な消耗を続けるつもりか?

わたしだってね、そういう人たちが少数派の話なら
別にそれとなく距離とって乗り切るよ。
ところがそういう人たちが多数派となって
包囲されてしまった以上、これは由々しき問題だ。

繰り返される暴力と謝罪
そういうスパイラルにどこかで歯止めをかけないと
いけないんじゃないの?
わたしがじゃなくて、君がだよ。
自分のことだろう。
わたしのことなんかどうだっていい。