あかんたれブルース

継続はチカラかな

習得し身につけ技術

愛する技術という発想(5)


米国の美術教育を視察してきた知人が
興味深いことを話してくれた。

米国のある教育機関では
カリキュラムのなかに「模写」の授業があったと
彼は驚いていた。

日本の教育改革を進展させるうえで
現在入試に直接関係ない音楽や美術などは
スミに追いやられ、それが当然の合理的
効率的な常識とされています。
が、こういった情操教育は感性から知性を
発達するうえで非常に重要である。

それを立証するかのように
米国のハーバード大学ではカリキュラムに
美術(芸術)を必修科目としている。

ところで、美術が人間の脳を活性化させ
その発達に影響を与えることは確かであるとしても
それを信奉しようとする日本の美術の教師や
その計画立案者たちでえさえも
その教育を美術を通じての間接的な感性教育
ぐらいにしか考えていない。

だから「模写」とかいう技巧の訓練教育など
皆無といっていい。
だからその知人はショックを受けたのだ。
迂闊にもそんなこと考えもしなかったと。

日本画や伝統工芸などは徒弟システムから
模写から技巧を学んでいきます。
芸事であればこれは基本ですが
本の学校教育でそういう発想はない。

愛を技術であるとするフロムは
それを身につけるために一番分りやすい方法として
ピアノなどの楽器を習得させるように
絵画(その技法)を学ばせるのに
実践としてまず奏でる描く表現する技術を
身につけさせることと同じと説く。

これは美術の時間にテーマを提示して
あとは生徒に自由に描かせる現在の手法と
まったく違う。
教師はそのなかから個別に生徒の才能や
特性を評価し手を加え指導することで
満足している。

でもね、どんなに素晴らしい感性や発想や
イデアがあってもそれを表現できなければ
伝えることができない。
音楽の場合は楽器が弾けなければそれは叶わない。
西田敏之がもしもピアノが弾けたならと
嘆いて歌うように

美術業界、たとえばアイデアを主とする
デザイナーの世界でも
どんなによいアイデアがあっても
それを絵コンテ(ラフカンプ)にしなければ
提示できません。これ絶対条件なのだ。

けれども日本の学校教育でそういうことを
学ばせ取得させることはありませんよね。
せいぜい縦笛か鍵盤ハーモニカぐらい?
ピアノは塾でギターは独学
塾・ヤマハ教室に通うか美術部に入るか・・・

いわんとすることわかる?

愛を技術として
それをテクノロジーとすれば
技術や技巧の集合体を指し
明確ではないにせよ当然そこは
科学、工学などの学術、知識、理論が存在する。
「特定の分野における知識の実用化」
「知識の実用化によってもたらされる能力」

つまり文化として

愛を技術と考えるアイデアに違和感を感じる人
これで納得してくれないものだろうか