あかんたれブルース

継続はチカラかな

プロセスのなかの感情

愛する技術という発想(4)


>私は子供に向ける愛が無償の愛だとは思わないのです。
>愛したら愛して欲しい。
>その辺がよくわからない。
>もちろん子供はかわいいし大切だけれど
>私的には子供はまだ、私の一部なんだと思ってるから。


愛の一側面である無償の愛を体現するのに
子育てはとてもわかりやすい経験だとしました。
ここに「与える」という行為がある。

たとえば、母親は幼子に授乳する
この与えるという行為に苦痛を伴わない。
親というものは子供の成長のために
さまざまなものを与えますが
そこに損得意識が働かない。
むしろ、与えたいという欲求が先に立つ
それが嬉しいのだ。

これこそが本能といえる。

ただし、それが故にある罠にはまりやすい。
子供が親離れする現実に対して
親の子離れがうまく行われないことです。
これは親の立場としてはとても理不尽なものだ。

人間が生を受けたとき生を与えられとき
個人であるはずの人間は母と子のなかで
一体化がある。
出産してもそれはしばらく続きます。
錯覚はここから生まれるのだ。

親にとって子供はいつまで経っても
「子供」であるという。
その認識をわたしは間違っているとは思わない。
東洋哲学では、そのことから
親の愛を「慈悲」としました。
親は常に子供のことを思い心配し悲しむ・・・
愛は悲しいものだと。

子供が成長するように
親であるわたしたち大人もまた
成長していかなければならない。
精神的な成長、人格形成という
これは宿命だ。

私たちが共通に抱えているは孤立感
孤独、疎外感にほかないからだ。

子育てがそういう時期にさしかかったとき
もしくはその時期を終えたとき
私たちはミドルエージングクライシスという
喪失感が影響する、ある後悔の、動揺に
陥ってしまうのだそうです。
それは現在の自分の状況に照らし合わせて
自分の親に対する後悔の念だ。
そのときはじめて自分の親の気持ちが理解できる
そして自分の迂闊さを知るのだ。

ま、感じられる人はまだマシなほうでしょうね。
なかにはそういうのを感じない人もいれば
感じないように努める人も多いものです。

子供との一体化は錯覚であり
ある時期までのことです。
時間がそれを解決してくれる手助け
となるでしょう。
親にしてみれば理不尽でちょと残酷なもの
ではありますが、これは宿命だ。
それは私たちもそうしてきたわけだ。
自立するために成長がある。
ただし、その自立や独立には孤独がついてくる。

じんぐりじんぐりこうやってまわっているもの
なんですね。

この件これで納得してくれないだろうか(汗)
補足として「母性愛」について
http://www.youtube.com/watch?v=3E-8g2GSvo8