あかんたれブルース

継続はチカラかな

幸せの無血革命

愛する技術という発想(10)


愛されることよりも
愛することに姿勢を変えてみると
価値観さえ変わってしまう

というのは
私たちが考える豊かさという捉え方が
180度変えられる。信じられる?

これまで、現在の我々の
豊かさはちょっとおかしいんじゃないか?
という問いかけは誰しももっていたはずだ。
というか、よくよく考えてみれば
ちっとも豊かじゃない。

そういいうとへそ曲がりが
発展途上国や紛争地域の人たちの現状をあげて
贅沢いうなと冷水を浴びせるけれど
いやそうじゃない。そういう話じゃなくて

敗戦後、日本は立ち直り高度成長期から
バブル経済を経て豊かになった。
一億総中流意識とまでいわれた。
そのバブルは弾けてもその根性はかわらない。
格差社会というけれどそのベースには
この中流意識があります。
私たちが幼少期を過ごした1960年代とは
まったく違う世界だ。

便利で、キレイで、豪華・・・なような世界だ。
ただ、はたしてこれが豊かさなのだうか?
みな追い立てられてノルマを強いられている。
それもこれも愛されるための奔走だ。
老後資金には一億円はないと安心できないとか
子供教育費にいくらいくら必要だとか
最先端医療を受けるためにはとか
いまが不動産の買い時だとか
クルーズだとか七つ星だとか三つ星だとか
パンケーキがどうしたとか

そのためにも貯蓄、蓄財は大事な
勤勉な日本人の嗜みです。日本人だけじゃない。
現在の豊かさはいくら持ってるか
だけれども、これが実はキリがない。
5000千万預貯金があっても満足しない
1億あってもいくらあっても
安心と満足の目的到達地点のハードルは
その都度高まっていきます。
不屈のアスリートだね、まるで(汗)

これ、すべて愛されるための意識に
はやしたてられているのだ。

対して、愛するという意識の世界では
いくら持っているかではなく
いくら与えられたか、に豊かさの価値がある。
無論、そういう考えも現在でもありますが
それは実にストイックで荒行のようだ。
ねばならないというのがあるんだね。
それに貧乏人は意外と気前はよいのですが
金持ちはおおかたケチなんだな。

実はね、人間はそういう与えたいという
欲求が本能的にあるんだそうです。
貧困がある限界を超えるそれは不可能になりますが
窮すれば鈍すの人間の卑屈さは
そういう本来の欲求を満たせない
つまり与えられないところの苦汁からだそうです。
つまり生きるうえである程度あれば
それ以外は余禄として与えたい
ま、これがよくいう「足るを知る」なんでしょ。
なかなか難しいですけどね。
これを難しくさせていたのは
愛されること愛することの姿勢ひとつじゃなかったか

非生産産的な人は与えれば減ると考える。
これが目減りの信仰だ。
然るに、人間は本来クリエイティブでなければ
ハッピーじゃないんだよね。
カネは天下のまわりもの
経済の基本は循環です。
与えれば与えるお金は入ってくるものです。
これ、ホントみたいですよ。
それにね、備えあれば憂いなしって
実は不幸を呼び寄せるって知ってたあ?
まあ、その話はまた別の機会としますが
この、豊かさの価値観を
どれほど与えられるかで計るって基準
素敵だと思わないか。

一億円もってる人よりも
一億円与えられる与えた人が豊か。
ま、金額ではなく比率の問題なのでしょうが
そういうことさえも気にならなくなる。
これって・・・革命だね。
経済観念の大変動が起きてしまう。

景気・・悪くなる?
経済が破綻する?
するかなあ・・・貯めこまないんだよ。
なんにしろ、精神衛生上このえなく健全ですから
医療費はぐっと抑えられるんじゃない。


誰だあ・・・ユダヤ人の陰謀だという馬鹿は