あかんたれブルース

継続はチカラかな

SとMと依存のサイズ

愛する技術という発想(11)


自立と孤立・・・自由
自立には私たち人間が宿命的に抱える束縛があり
その解放には自由の渇望があるけれど
同時にそこには孤立という不安があります。
このジレンマのなかで
さまざまな妥協案や誤魔化しがある。
そのひとつにサディズムとマゾヒストという
行為による力の支配の、依存がある。

それは個人的な人間関係から
国家レベルのファシズムまでさまざまだ。
民主主義というけれど
民衆とは、とかくこのように頼りないものです。
ましてや個人にいたっては・・・

母性もまた例外ではない。

陰陽学で男性とを女性を陰陽でわければ
男性が陽で奇数の凸となります。
これは割り切れない奇数で未熟なものとなる。
従って男性はこの端数の突起物を足すか引くか
それに奮闘するわけですが
女性の場合は陰で偶数の■とされる。
女性はすでに完成されている。
それもあって、男性と比較して、ですが
さほど反省したりしない傾向が強い。
「私のせいじゃない」とか
「今まではそうだったかもしれないけれど
 今は違う。私は達観した!」
と常に現在はベストの状態だと主張する。

女性は恋愛から結婚、出産から変容します。
少女から女になり妻になり母になる
そして家庭という小世界のなかで
「指図するようになる」
その統治に支配に子供も夫も従属するのだ。

この傾向が強くなったのは20世紀に入って
からではないでしょうか。
ビクトリア時代を境にして結婚観が大きく変わった
ことにも関係するでしょう。
ただし、このSMの力学は結婚、子育てだけではなく
人間関係のすべてに存在する法則です。

女性がここで力の罠に陥るのは
出産という特権とチャンスの徒花としかいえない。

キャサリン・ヘップバーンの名作『旅情』で
ヒロインはパーティーが楽しくてついつい
引き際を逸してしまったと告白する場面がある。
これと似てる
我が子を愛するあまり、その蜜月関係を
永遠のものと錯覚し、それを力業で
継続させようとするのだ。
がゆえにさまざまな悲劇が生まれますが
もっとも大きな悲劇は彼女の目論見通り事が成就し
その子供が独立できない体質になってしまうことだ。
それさえも彼女は悲劇とは考えないかも
しれませんけれどね。

なによりも、彼女自身の自立はそこで停止されて
クローズされてしまっている。

陰陽で女性を■と認識するのではなく
男性の凸に対して凹として
ふたつでひとつの完成された□となる。
というアイデアがここでは座りがいいのですが
こんなこというとフェミニストの方々から
怒られるんでしょうねえ(汗)

ま、とにかく結婚しようが出産しようが
男であろうが女であろうが
人間が生まれ成長し、自立する。
これはどうしても避けられない摂理、お約束です。

しかしそれがなかなかうまくいかない。
その中のジレンマに苦悩があり、不安や怖れが
があり、後ろめたさがある。
そこで解決できない妥協案(インチキ?)として
手っ取り早い方法として、力の支配がある。
これがSMの関係だ。
これは母性だけの話ではない。
私たちのなかの依存の関係性とその実体だ。