あかんたれブルース

継続はチカラかな

ソドムとゴモラの民主主義

愛する技術という発想(13)


結局、人間が抱える孤立感を
サディズムやマゾヒストの依存では
解決できるものではない。
それでも、どこかに逃げ場を求めてしまうのが
悲しいかな人間の差がである。

ヘーゲルは人間が自立できた時代を
遥か昔のローマ時代のこととして懐かしんだ
ヘーゲルが生きる時代は18世紀である。
その時代もそして現代も
人間はどこに逃げ場を求めたか
といえば共同体だ。
それによって様々な倫理や正義は
共同体を脅かすものを、民衆の敵とした。
アウトローや犯罪者のだけでなく
異質なもの異形のものマイノリティーさえも
このなかに入る。
そういうものたちの存在を無視できない
許しておけない不安と恐怖がヒステリーを起こす。
結局ここからいじめや差別が生まれているのだ。

自立する自由を逃れようとする者たちは
その後ろめたさから自分達と歩調を合わせない
ものたちを決して許さない。
否定することで己の正当性を誇示する。

それから逃れるには東洋的老荘思想とか
仙人にでもなって浮世から隔絶するか
悟りとか解脱とか様々な自己申告で
結界をこしらえるしかないと
考える人たちもいる。

そこまでしなければならないものなのか?
ヘーゲルは変化を厭う人間の本性を解説する
雄弁な紹介者ではあったけれど
じゃあどうするの?
という答えが手薄だったといえる。

それならば、まだマッキャベリーのほうが
より具体的に本質をついていた。
それ以上に、フロムはもっとシンプルに
その打開策を提示している。
愛されることよりも
愛することの重要性を説いたのだ。
『愛するということ』が出版翻訳されて
おおよそ半世紀を経て
ようやく時代がそれを受け入れるまでに
民衆を追い込んでいる。

わたしはこれ以外のこれ以上の
具体的な是正案を知らない。

それでも人間はまだ逃げ道を模索する。
恋愛の熱狂や過剰なセックスの依存だ。
これは正鵠を射るに実に惜しいニアピン賞で
実に悔しい方法論であるけれど
残念ながらこれで浮かばれないのだ。

なんででしょう

と、つづくきます。