あかんたれブルース

継続はチカラかな

さびしさの呪いの暴走

愛する技術という発想(12)


サディズムとマゾヒストは人間のなかに
誰にもでもあるものです。
個人差はありますけどね。
たとえばカルロス・ゴーンのような
有能なビジネスマンは多少M気が強いタイプ
だそうです。

こういう資質としてのものとは別に
AさんはBさんに対してはSであるが
Cさんに対してはむしろMである
なんてこともある。
私たちをこれを相性といって納得します。

さて、人間の悩みは自我の目覚めから
自分自身が何者かということと
自己確立がうまくいかないジレンマ
そのなかでの不安や怖れからです。
それは他者に対する不可解や疑念もあり
その解決策として力で支配しようとする。
これがサディズムの暴走だ。

また、そういう力に支配されることによって
依存してしまうタイプの人がいる。
それがどんなに理不尽なものでも、
自由や孤立(孤独)の不安や恐怖よりも
まだマシと考えるのですね。
行使するもののもされるものも依存しあってる。
みょうな関係性ですが
共通して双方が自立できていないのは確かだ。
それでうまくいっているのであれば
三者がとやかくいうことではないのかも
しれません。相性として納得するか・・・
しかし、それはその人個人の問題としては
とても重大な欠陥だ。

そういったお手軽な自己満足はさらに
拡大し暴走すると厄介なことが起きる。
イジメやモラルハザードはこういうところから
生まれているのだ。
自己肯定のための他者を否定しひれ伏させる
腕力や権力、財力、利害がそのための
道具に用いられる。
ファシズムもこういうところから生まれると
フロムは説く。

もっといえば、これすべて
愛されるための意識の、欲求の、暴走だ。

無論、成熟する人格には
このような不自然な欲求は芽生えづらい。
本能以上に人間には理性があり
マズローの自己確立の欲求や
シュタイナーの七年周期説のプロセスに沿って
「健全」に成長しようとするものだって
少なくはない。

自立を目指すもの
道を誤り暴走していくもの
この差は大きい。
どっちが楽か?
手っ取り早い方法論としては
後者のほうがお手軽かもしれませんが
はたしてそれが楽なのか・・・?
どこまでも満足できないから
暴走するのではないか。
最終的には破滅すか発狂すると
フロムは言い切っている。

愛するということを
愛されるというこよりも
愛するということに考えを改めてみることで
この罠から回避できる。
それほどに私たちは
愛されることばかり考えて
愛するということを忘れている。
自分自身を愛することさえも

なぜ、このようなことになるのか
理由はさまざまですが
そのなかに親の存在がある。
教育といってもいいのですが
ここでは、親
特に母親の存在、母性に話を結べば
子育てのなかで与えられる母乳、乳だけではなく
賢い母親は蜜を与えるのだといいます。

蜜とはなにか・・・

それは生きる歓びを教えることだそうです。

言葉をかえれば愛情なんでしょうが
これを得られなかった、不足していた人は
とても不幸な不安と恐怖を背負って
生きることになる。これが自立を妨げるのだ。

なにが豊かで、何が幸福で、何が楽しいのか
もう一度考えてみるべきだと思う。
私たちは子供たち豊かに幸福にと願い奔走する。
しかし、はたして子供たちに蜜を与えられているだろうか

子供たちをさびしからせてはいけない
不安の記憶を刻んではいけない
三つ子の魂百までもというけれど
実際はそれ以前の乳飲み子のときから
子供はそれを確認しようと必死なのだ。