あかんたれブルース

継続はチカラかな

なめてかかると火傷するぜあっちっっち

愛する技術という発想(15)


人間が抱える孤立と自立の宿命から
人は、自分以外の誰かと同化したいと
思うようになる。
これはきっと遠い記憶のなかにある
母親の体内にあった安息の憧れなのか
それは不思議な矛盾です。
自立したはずなのに自分を認めたはずなのに
それとは別な人格と同化したいと願う。

誰でもいいというわけではない。
この人であれば、
この人と同化したという欲求。
ここに恋愛があり、当然、愛がある。
それは母性愛でもなく兄弟愛(友愛)でもなく
異性愛というもので性愛という
セックスがあります。
無償の愛のように
母親が乳を与えるように
それは与える
山口百恵が歌ったように
♪あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ
http://www.youtube.com/watch?v=pmbMWf3b1gw
そして男は性を与える
食うという下品な表現があるが
実際は食われてる(汗)
いや与えているのだ。

そういう意味で愛とセックスはイコール
という図式が成立つが
ここで問題なのは、愛がなくても
セックスはできる、という事実だ。

そのアンチテーゼをまるで勝ち誇ったように
まるで真理のように
喉もとにナイフをつきつけるものもいるが
そんなもには意味などない
あるのは疲労と不毛と焦燥だけなのだ。
本来得られるはずの永久の安息は得られない。
だろう
そのことを誰でも経験し知っている
いるはずなのに、手軽な逃避法として
それは用いられる。
快楽と刺激の追及としって
もっと先に求めるものはきっとあると
妄信して罠に陥るのだ。

逆説的にいえば、愛などないほうが気楽
という考えさえ浮かび上がる。
当然その刺激には限界があり
相手をかえることや薬物を用いることなどで
さらなる刺激に足を踏み入れるが
それでも限りがある。

それでも、暴力よりはマシだ。

産業革命の後
人類は第一次世界大戦という過ちを犯し
挫折し深く反省し学んだ。
そこから新しい英知が生まれたが
再び大きな過ちを犯す。
これすべて愛の認識の過ちだ。
1960年代にはそれに背を向けるように
ラブ&ピース、フリーセックスという
カルチャーが台頭したが
時代性を変えるまでには至らなかった。
本質的な愛の意味を咀嚼できていなかったからだ。

そして、私たちはますます保守的で
頑迷で無知に陥ってしまっている。
倫理観は時代や環境によって変容する
愛の認識
いや恋愛の認識さえも
トレンドのようになってしまうのだ。

それをフロムはこう説く
http://www.youtube.com/watch?v=w3Wfn9h3jIM

ビクトリア時代(1837年から1901年)
恋愛と結婚は決してイコールではなかったという。
つまりほんの100年少々前までは
そうではなかったのだ。
ロマンチックラブが恋愛から結婚を
当然の流れとなり常識となったなった結果
多くの悲劇を生んだことを
私たちはなかなか認めようとはしない。

わたしもそれを全面否定などしないが
この世の宿命として「飽きる」という弊害が
異性愛に付随するというのならば
ここは考えないわけにはいかないだろう。

フロムは愛を意志の行為とも指摘する。
決意であり決断であり約束であると。
そこで、わたしはハタとあの宇津井健の結婚を
思いおこすのだ。
あれを単なる美談だとか
老いらくの恋とか時代遅れの倫理観とか
揶揄したりできないものが
私的にはある。

色気がある。
それこそが恋愛の真骨頂ではないか
長谷川伸は色気というもを
一途さといった。

ここでひとつの結論でしめようとすれば
この愛に条件があるとすれば
それを勇気としよう。
聞くものによっては到底納得できない暴論かも
しれないけれど、わたしはそれは必須なものだと思う。

勇気のないものに愛は得られない。