あかんたれブルース

継続はチカラかな

ちょっと先生にタテついて

愛する技術という発想(22)


愛されることに奔走することを
諸悪の根源のようにいい
愛することに改心しろ
と、わたしがいうんじゃなくて
フロム先生はいうわけですが

この愛される、というの願望はどんなものか?
いろいろ考えてみるのですが
ひとことでいうと、認められる。じゃないか
認められたい。
そう考えると、孤立感から自立・独立を目指す人が
アイデンティティーを確立するために
もっと柔らかくいえば
自信のない「私」が誰かに認められることで
(自信が得られるような)
その裏付けになるという図式じゃなだろうか。

ただし、誰でも彼でもというわけじゃない。
(なかにはそういう人もいるかもしれませんが)
出川哲郎とかに認められてもそう嬉しくはない。
(なかにはそういう人もいるかもしれませんが)
真島茂樹に好かれても困惑してしまう。
(なかにはそういう人もいるかもしれませんが)
ビッグダディーに愛されたら・・・迷惑だ!

つまり、自分が認めた相手
素敵だなと思う好意を寄せる相手に認められたい
これがほぼ人情というものです。

なんで「ほぼ」とぼかすかというと
「愛される」には純粋に愛されたいだけじゃなくて
「嫌われたくない」があり
このなかには無関心や自己防衛もあるからだ。
消極的な処世術というものでしょうかね。
ま、それはまた今度として

自分が認めた相手に認められたいと思うようになると
その次はその相手と同化したいと考えちゃう。
これを「プラトニックセックス」という。

自我の目覚めから孤立感を極め
自立独立を目指し自己実現の道を歩んでいたのに
これって自己否定?もしくは逃避なのか?
いや、そうとはいえない。
これが未完成の人間の凸と凹の合体で□という
究極の完成形となるひとつの方策じゃないのか。
凸が男性で凹が女性と限ったことではなく
相手はなんでもよろしい。
とにもかくにも究極の己を空しくするの域に
達したってことなんでしょうかねえ。

つまりさ、その自立というのは
己を縛るしがらみからの解放であり
自由の渇望なわけじゃあないかな。

愛されることの先にある
いや、その根本にある愛するということは
利己という生きるための様々な知恵をお留守にして
一瞬でも相手のことを優先させて生きることだ。
このとき、人間は途方もない開放感を得られる。

単純に、うれしいのだ。

ここで大事になってくるのは
誰を愛するのか
なにを愛するのか
ま、これは人それぞれでしょうが
要はそれによるよね。