あかんたれブルース

継続はチカラかな

臆病者の愛の目論見書

愛する技術という発想(21)


愛されることと愛することの違いってなんだろう?
このシリーズの前半で
愛には、愛するということには
資格というか条件というか仁義のようなものが
必要と記しました。
なんか言語道断の暴論のような感じでしょうか。

そういうことには耳を傾けずに
それは何かと問われれば「勇気」と答える
だろうね。

愛されることにはさほど勇気はいらない
けれども、愛することには勇気が必要だ。
まずそれを、それを受け入れられるかどうか
という狭い了見で捉えただけも
それが白真剣であればあるほど気が遠くなるほどの
勇気が必要だ。
もしそれが拒絶されたりなんかしたら・・・

無論、フロムがいう愛するということは
そういうことだけを指しているんじゃないんですが
この娑婆で御法度としがらみに生きる我々とすれば
どうしても愛の物々交換は避けて通れないわけだ。
それはまだ愛が南蛮渡来する以前から
葉隠れあたりではそれを言っちゃあお仕舞いよと
忍ぶ恋片思いを最高のものとして
崇めたてていたほどです。
ストイックだねえ
それほど怖いものなのだ。

たとえ蛮勇であろうとも自惚れであろうとも
浅はかな自己中であっても
その線から踏み出せたものにはチャンスがある。
宝くじは買わない人には絶対に当らない。
その当りくじが三日もつか三年もつかは
知りませんよ。
でもアクションを起こさないことには
なにも起きないわけだ。

メス化する男性なんて言葉をよく聞きます。
これにはいろいろ事情があるでしょうが
恋の主導権もかなり前から女性が握っている
ような気がしてならない。
その打破として様々なハウツー本は出回りましたが
それでさえもジリ貧はいなめない。
戦後ストッキングと女性は強くなったといわれる
この傾向を文化で遡ってみれば
たとえばコミックの世界(シチュエーション)で
ヒーローは常に受身の態勢だ。
タッチにしてもなんにしても
さばけているのは早熟な女性側。
この座りが非常に心地よい。
硬派であろうがスポ根であろうが絶対の不文律。

勇気がない。

対して少女コミックは勇気凛々ギンギンだ!
しかし、この傾向は戦後の風潮じゃないんじゃないか?
それこそ、ビクトリア朝時代からそれ以前の傾向
つまりロマンチックラブ=結婚でなかった
以前からそうだったんじゃないかな。
黒船が来航する以前から
つまり古今東西関係なくだよ。
だから、ジゴロや青髭西鶴好色一代男や役者は
別としても、本来男性ってものは臆病で
愛の告白なんて死ぬ事と同じほどの覚悟が必要だった
わけではないでしょうか。

愛されることというのは
そこまでの覚悟は必要ない。
まず嫌われないことであり、もっと前向きならば
愛されるための条件を有利にすること
じゃなかったのか。
立身出世も一国一城の主も青雲の志も故郷に錦をも
受動的な求愛行為だったのではないか。

しかしさ、そこに色気がないんだよね。
だから長谷川伸がいった
色気とは「一途さ」って言葉がキラリと光るわけだ。

タッチより数年前に梶原一騎という乱暴者が
『愛と誠』という大河純愛ロマンを描いた。
ここでも主人公太賀誠は最後まで受身だ。
しかし、インテリの岩清水弘は猛然と言い放つ
早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」

狂ってる。

幕末、黒船来航以前の日本では
それまでの武士の嗜み朱子学(机上論理)に辟易し
一部では熱狂的な陽明学(実践学)が信奉され
「狂」という思想が、行動学もてはやされました。

フロムは愛についての恋愛に対して
「堕ちる」という姿勢を懐疑する。
それじゃあ身が持たないと。
でもね、それは死と同等の行為なのだ。
それほどのリスクを伴う行為だから
シラフじゃできない。
狂うしかないじゃないか。

それから100年200年・・・
ああ人類の愛の夜明けは遠いか近いか
遠くで汽笛が泣いている

馬ちゃんポーが聞こえる