あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛を語れば顔に電気が灯るわけ

愛する技術という発想(27)


十九世紀から二十世紀かけて
人類史上に多大な影響を与えた近代化
これは工業の発展を重視し精神的な発展を
置き去りにした片手落ちだなものだった。

愛の近代化もその流れに沿っている。
それが愛されるための偏重だったことに他ならない。
その方向性の誤りを正さないで
いくら社会主義共産主義を説いても
現実は不毛な結果になってしまう。
フロムはフロイトマルクスの間で苦悩する。

彼の出した答えは明快だった。
愛されることよりも、愛することにバランスを戻す。
愛することを技術として、それを習得する
知識や訓練が必要なのだと。
そこにすべての解放と幸福があるんだよ~お
というナイスアイデアだったのですが
時代がまだ機を熟さなかったようです。
マッキャベリもいっていますが
この時代性はとても重要なキーワード(条件)だ。

さて、前回の記事で
問題のあった前近代化のなかで
特に愛の後進国だったとされる日本は
その近代化さえも未完成未遂行だったという
指摘がなされています。
だからこそチャンスなんだと。

なんといっても愛の認識自体
日本人は曖昧なものです。
まずクリスチャンじゃないぶん、神との
神への、愛が希薄なんだな。
せいぜんお願いするときだけ。
そんなことよりも日本人にとって愛はまず
恋愛(異性愛)が87%だ。
母性愛が8%ぐらいでしょうかねえ・・・
家族愛もふくめて1割あるかどうか

兄弟愛(友愛)なんてハテさてそれって愛か?
人類愛とか博愛は胡散臭くてしょうがない。
郷土愛? 古臭い!おら東京に行くだ。
愛国心・・・右翼か(汗)
愛社精神なんてアホらしい(涙)
まあとにかくこういうものが戦後の風潮で
すべて瓦解しちゃった
それを民度の向上という知識人もいますが
はたしてどうだろう。

この最初のボタンと掛け違いというか
食い合わせの悪さで誤解の後遺症をこじらせたのが
舞台・映画で御馴染みの『無法松の一生』だった
って話は以前しましたよね。
松五郎の淋しさは兄弟の消失からの孤立感
だったのですが、それじゃあ観客が解らんだろうと
吉岡未亡人への恋慕にすり替えてしまった。

このショービジネスのつまり
合理的な効率的な商業主義は毒の72%は
欧米合理主義(近代化)の影響でもある。
ま、下世話は日本人の十八番ですけどね。

ここから日本人は愛の迷宮に足を踏み入れるのだ。
曖昧な愛・・・だけでなく
愛にうしろめたさが付随する。
もっといえば、プラトニックとセックスの矛盾だ。
プラトニックは清純で美しい
けれどセックスは生々しく滑稽で利己的・・・不純!
よっぽど条件を揃えないと崇高にはできない。
あとは開き直るか割り切るしかないもんね。と

これをずーっと100年以上引きずっている。

そんななかで「不倫は文化」なんて宣まったても
裸足に革靴蒸れませんか臭いませんか
てなもんや酸度が差だ。古いなあ(汗)

だかといって、その遅れを取り戻そうと焦っちゃダメ
中国や韓国を御覧なさい。
国際化を勘違いしてとんでもない暴走ぶりだ。

愛の後進国で良い事ばかりではないけれど
中途半端な咀嚼と誤った使用法で
二進も三進もいかなくなっているんだから
そういった思想をまず横に置いて
本来の自然なカタチに戻すことが大事だと
思うわけです。

フロムの愛することの思想から
まずは、現代人を苛むストレスについて

ちょうど時間となりました。
ストレスの話はまた次回ということで
それではみなさん良い週末を