あかんたれブルース

継続はチカラかな

幸せに一番遠い場所が意外にも

愛する技術という発想(26)


愛について、日本(日本人)は後進国(民)
だといったら違和感をもつだろうか?
実際に「Love」が渡来したのは
明治前だったことは御存知だと思う。
それまでそれをあまり意識したことがなかった。
意識しなくてもそのようなものはあっただろう
けれど・・・はて、それをなんと名付けるべきか
取り合えず「愛」としたわけです。

さらに掘り下げると宗教的な意味合いとは別に
この「Love」は西洋の産業革命以降変容した。
ここでは「近代化」から「Love」が
派生したと考えてみる。
つまり、これは教会から「Love」が独立した
ことでもあり、これは中世の終止符ともいえる。
なんてね
まあ、たとえてそう考えてみるとする。

ところがさ、このラブの近代化は誤っていた。
19世紀から20世紀、現代に至って
人類の歴史は惨憺たる浪費と疲労の歴史だった
わけですからねえ・・・

エンデ的にいえば循環を誤っていると
指摘するでしょう。いや循環されてないかな。
このエンデもドイツ人だね。

文明開化と共に西洋合理主義と愛の近代化が
入ってきて50年ほどたって、
日本人の幾人かはハタと気づきます。
これじゃあ・・・不味いんじゃない(汗)

文豪夏目漱石もその一人でしたが
陸軍に石原莞爾というちょっと天才も察します。
西洋と東洋では違う。
この違う文明は必ず衝突するだろう。
これが石原莞爾の東西最終戦争論だったわけです。
その具体策のひとつが満州国建国だった
のですが、不幸にもそれが破綻の切っ掛けに
なってしまう。
無論、石原莞爾支那事変を回避しようと
努めましたが、結果は止められず
太平洋戦争にまで発展させてしまう結果と
なってしまう。
ちょっと天才は時としてなんとかに刃物のように
危険な代物なのですね。

ただここで石原莞爾を批判しても始まらない。

問題のポイントは
日本が愛の後進国だという事実です。

一番遠い位置にある
ってことは逆にいえば
方向性を変えて目的地点をかえれば
一番近い位置にあるってことでもある。
これは同じ東洋でも
同じ儒教の影響を受けた
中国や朝鮮とも違う(これらは既に迷走中)

なんで日本は愛の熱病から遠く離れていたか?
それは地理的条件のうえで日本が島国だったから。
司馬遼太郎の『韃靼疾風録』のなかで
日本を訪れた満州人が「オアシスの国」と
驚嘆する場面があります。
日本は起伏にとんだ自然豊かなオアシスの国だった。
これは国土は広くても
都市国家を形成する中華とも違う。
この自然のカプセルのなかで
独自の文化を形成していた。
自然とは変化です。
対して、中東のエルサレムあたりでは
そういうものがない。
人間は失楽園から荒野に放り出され
孤独に途方のなさをを感じます。
季節に変化がないので時が止まって
永遠に感じてしまうのだ。

そのよるべきな不安や恐怖から神というものと
契約を結ぶのでした。
それがユダヤ教でありキリスト教でありイスラム
いわゆる一神教の神と人間の二元論です。
自然はその外にある。

対して、日本のアダムとイブたちは
いまだ楽園(オアシス)のなかに棲んでいるので
そういうものを必要としない。

大陸から様々な文化や宗教が入っていきても
それは基本的に変わらなかった。
とくに徳川家康は商工業の発達に危機感を募らせた。
この鎖国時代がさらに日本人の純粋培養を
際立たせたと考えられる。

そして19世になってようやく
西洋的な愛が渡来したわけです。
ところが、しばらく経ってちょっと自分達とは
相容れないものがあると気づく。
そりゃそうです世界各国ですでに矛盾が起きていた。
石原莞爾日蓮の予言も後押して
東西両文明の最終決戦と考えたのだった。
結果は惨憺たるものなんですけどね。

自然を超越しうると考える文明と
自然と共存しようと考える文明・・・
まるでナウシカのようですが
どっちが正しいと思う?

こういうことを考えられのは
西洋であれば迫害されたドイツ系のユダヤ人か
東洋であれば孤立していた日本人しかいない。
アメリカ人でもましてや中国人でも
ありゃしないのだ。
確かに東西は衝突もしますが
同時に融合もする。
それは人類の歴史で何度も繰り返された営みだ。
19世紀に東洋からドイツに易経がもたらされて
古典物理学など多くの進歩がありました。
担い手はユダヤ人たちだったとは皮肉ですよね。

そういったなかで
フロムは
愛されることより愛することの意義を説く。
これは仏教的にいえば自力ではなく
他力の思想と同じようなものだ。
また、その技術とは
東洋哲学的に解釈すれば、徳というものに近い
とわたしは解釈する。

はたしてこのアイデアを古臭いと考えるか
一考の価値があるとするか
それはあなた次第だ。
資本主義社会、つまりは愛されるための文明が
いきづまって100年。
さまざまな打開策が用いられましたが
どれをとっても解決の糸口どころこか混迷を極めて
ここまで追い込まれてきたわけです。
崖っぷちなのだ。

ボタンの掛け違えの答えは既に出ているではないか

自分だけが・・自分だけは・・・
こういう考えを改めない限り救われなんかしない。