あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛されることに疲れてしまわないか

愛する技術という発想(28)


フロム以前の話として
人間が(ここでは日本人限定なのかなあ)
ストレスを感じるのは人工的なものに
限定されていて、自然に対してはストレスを
感じない。と記しました。
暑くても寒くても怖くても臭くても、ですよ。
もしあなたがオフィスの空調に
イライラしたとしたら
その原因はエアコンの設定温度ではなく
それ以外にあるはずだ。仕事とか上司とか・・・
というかエアコンは人工的だから
ストレス感じて当たり前か(笑)

また、その自然でも
多少人間の手が加わった自然にもっとも
安らぎを感じるとか
盆栽とか庭園とか里山とかです。

ま、ニュアンスでくんでおくれ
そういう学説が定説として存在してるわけです。
ツッコミ入れるところはそこじゃない。

さて、フロムはストレスという名称こそ
用いませんでしたが、その苛立ちや焦燥感を
受動的か能動的かで考察し
後者であればストレスを感じないと指摘する。
懐かしいですね受動態能動態。
中学の英語の文法以来だ。
ストレスの根源は受身的な行動からだと
フロムはいう。
でね、ここに受動的な愛と能動的な愛があると。
それ以前に愛は行動であるとも断定していた。
(愛を恋愛だけに捉えなくてもよろしい)

ここで内館牧子の『義務と演技』を思い浮かべた人は
察しがよろしい。
恋愛の延長十三回裏にあるという
結婚生活数年後の愛もまた
能動態から日常から受動態になって
ノルマになって義務や荷役に倦怠となる
ことを経験した人は多いはずですね。

これは物事すべてにいえることです。
仕事でも人間関係(付き合い)でも人生設計でも
易経では艶→恒→遁のプロセスだ。

つまりローンとか日常がノルマ化(受動的)に
なってしまうから嫌になるんだよね。

対して自発的(能動態)であれば
やるなといってもやるよね。
そこにストレスはさほど存在しない。
むしろもっとやりたくらいだ。
フロムが愛を愛する技術と捉えることで
その知識や技能が必要とした理由のひとつに
この能動的な行動があると思う。

日本には「釣った魚に餌をやる馬鹿はいない」
なんて意地悪な格言(?)がありますが
これは結婚を(恋愛の)目的到達地点
と考えているからだ。
そりゃねえ映画だったら結ばれてそこでハッピーエンド
ですけれど、実際はそこから始まってるわけだ。
だからこの意地悪な金言は間違ってる。
どころかこれが禍の種となっている。
そんなことを疑問に感じない馬鹿亭主は
本人も配偶者も子供たちも浮かばれないよ。
こういった迷信が罷り通ってるのだ。
尚、これは欧米の近代化とは無関係で
たんなる強がりの張ったり力業ですからね。
ニッポン独自の誤った近代化の勘違いともいえる。

これに拍車をかけてるのが
日本人の昨今の損得意識です。
厄介は御免だ。面倒は損。とばかりに
どうやったら責任回避できるポジションをとるかが
処世術の最優先課題と考えている。
そういうなかで能動的な行動は
「馬鹿は損をみる」的な
絶対のタブーなのですが・・・
実はそこからストレスが生まれているのだ。
まあ嫌々やったらもっとストレスだし
押し付けられたらなおのことでけどね。
これは、それ以前の姿勢や取り組みの問題。
先手必勝なのかよ。

これが、愛するという技術の
心構えのことですよ。
つまりこれを理解し習得できれば
ストレスとはできる限り無縁のライフとなる。

そこまでしてしてやりたくない?

ちょっと待って
そこまでってまだなにもやっていないじゃないか(汗)
キミは賢いんじゃなく単なる愚かな怠け者だ。

それにストレスってかなりハードな厄災だと思うよ。
精神疾患だってそこから発症するわけだし
なんたって幸福の対極にあるものじゃないか。
幸せになりたいんじゃなないの?
そういうものは宝くじが当るとか
そんな天から降ってくるものじゃないぞ
アメリカンドリーム?
ここはアメリカじゃない!アホたん!

もっと踏み込んでいえば
愛されることがノルマになったら
これもつらいと思うけどね。
そのためにヘトヘトになってたんじゃないかい?

愛されるための能動的な行動には限りがある。
愛するという行為の行動には
それがありません。
この差はデカイと思うけどなあ。
この二段階の意味合いを考えてみてくださいね。
受動的と能動的
そこから愛されるためと愛することの
能動的な行動。