あかんたれブルース

継続はチカラかな

回避と糾弾の責任のけもの道

愛する技術という発想(30)


人一倍依存心の強い日本人が
自らその共同体を省みなくなったことから
混迷は拡大しています。
そこから様々な弊害や疾患が生まれている。
そのキーワードに「責任」というものがある。

無責任時代なんて言葉が昔流行ましたが
植木等のその時代の無責任と
現代のそれとはいささか内容が異なる。
現代はこの責任を必要以上に追及される。
対して、危機管理はいかにこの責任を回避するか
に主眼がおかれているのではないか。

責任時代と無責任傾向・・・まったく矛盾する
なんとも変な時代だ。

キリスト教国家ではその思想(意識)のベースに
人間は神と契約を結んだ、という前提から
成立っている。
なので契約、プロミス、義務、責任というのが
非常に重要視されています。特にアメリカとかは。

よく映画なんかで想定外なことがあると
外人は、特にアメリカ人は
「Oh! My God!」と口にする
ポパイの「なんてこったい」であり
常に神に語りかけてるわけだ。
対して日本人は神をそこまで意識しません。
せいぜい神も仏もないものか
とか、最近では
「こんなことはあってはならないのです!」
という誰にともない行き場のない憤りだ。

この行き場のなさが欧米的な責任追及となって
糾弾側に立つことが、逆に安全なんだという
みょうな考えが生まれてくる。
これはイジメなんかでもいえることです。

誰かのせいにしたがる。
これは精神的には幼稚な発想ともいえるのですが
そのほうが楽なのでこの傾向はおさまらない。

先の戦争責任も軍部やA級戦犯天皇などに
責任を押し付け国民はすべて被害者という図式で
糾弾は展開されています。
その旗振り役がマスコミなのですが
本来の責任は国民自身にあることを認識しない限り
あの悲劇は何度でも繰り返される。

糾弾や批判する側にたてば
その時点で正義という椅子が与えられる
みたいなムシの良い発想は姑息で老獪だよね。

また、その免罪符を取得する手口に
無責任とは別に「無関心」というのがある。
この無関心というのが、日本人の感性を劣化させている。
無関心でいることの処世は
最終的に責任回避のための予防線なのだ。

もうだいぶ古くなってしまいましたが
アラン・ドロンの主演作品に
『名誉と栄光のためでなく』(1966年)
というのがありまして
内容はともかく(ほとんど忘れた(汗))
このタイトルが気に入っててね
ときどきつぶやいたりするんだ。
「魂の試されるとき」(丹羽文雄)に匹敵するかな

でさ、思うのだけれど
名誉と栄光のためでない、それ以外のものって
なんだろうね。なんだと思う?