あかんたれブルース

継続はチカラかな

砕けて砕けて紅くなれ

愛する技術という発想(43)
中島みゆきは知っている [ほうせんか]


この世に絶対の法則があるとすれば
変わる。変化する。
ということです。自然も人間も
人間の人生もこの法則のなかにある。

デビュー時からの中島みゆきの歌をたどって
大きな変化があったことを記しました。
それは彼女のファンならずとも認めることでしょう。
それを「ファイト!」からか?
と推測しましたが、とは別に彼女のシングルに
「ほうせんか」(1978年)という唄があります。
http://www.youtube.com/watch?v=s94sAbXcuvo

せつない別れ歌のように察せられるけれど
この曲はその前年に37歳の若さで他界した
STVのディレクター竹田健二の追悼曲だそうです。
わたしは長いことそれを彼女の恩師である
ヤマハの総帥川上源 一氏かと勘違いしていたけれど
いずれにせよ、中島みゆきには
その死を悼むべき人がいて
愛する人がいたわけだ。
そこに愛がある。

そういう愛が彼女に変化をもたらせた。
無論、あれほどの知性の持主ですから
それ以前にフロムのことも愛の本質も知っていた
ことは十分に考えられる。

それでも彼女の知性や感性は鋭すぎて
さびしさをふり払う諸刃の剣だったのかもしれない。
疑いや嫉妬、そこからの自己嫌悪・・・
そういう試練のなかで彼女は成長していった
と考えるほうが
計画的な戦略だったと解するより自然じゃないかな。
大変失礼な物言いになりますが
あれほどの人でも未熟者だったわけです。

赦すという思想が日本人にはあります。
水に流すという考えです。
この思想をもって世界の紛争地域で和解の活動を
されている方もいる。
他の民族にはあまりない発想なのだ。

生真面目・誠実すぎるが故に
己を苛んでしまう友人に
わたしはよく、もういいじゃないか
いいかげん赦してやれよ。と励ます。
なかなかうまく通じませんが
人間は誰よりも自分には甘いものです
対して他人には厳しいし期待も大きい。
でもなかには必要以上に自分を責める人もいる。

そういう人が疲弊し壊れてしまい
卑怯で恥知らずで良いとこ付きの連中が
健全だなんて理不尽だなあと思うことがよくある。
そういう人たちにのべつ暇なく小言をいっても
しょうがないし、苛まれる者たちに対する
励ます言葉も実は上手く持ちえていないんだよな。

人間はどうしても比較してものを考える。
「私は誰とも比べてなんかいない!」
というけれど、そういう次元じゃなくて
相対的なんだよ人間ってどうしても
そしてなによりも自分自身のなかで比較する。

ダメな自分と出来るはずの自分と
常にベストな理想の自分と比較して
そうでない現実と自分を恨んで責めるんだ。

人間はみんな弱くて未熟なのに
常には今は完璧なんだと信じる、信じていたい
そうじゃないととても生きていけない
という錯覚がそこにある。
その錯覚が劣等感と優越感の振り子を動かし
生かされていることの気づきを鈍らせ
生きていることを自立や独立と勘違いする
自由と履き違えてしまうのではないか
本当は誰よりも臆病で
そのことを認めることさえできないのに

さびさしさの理由はそこにもある。

うちなるさびしさを自嘲していた
みゆき嬢は優しい人との出合いや別れから
愛というものを知った。
それはデビュー曲「時代」ですでに伝えられている。
きっとプロセスは別としても
道筋は定まっていたのかもね。

愛されることよりも
愛すること

それはまず自分を愛することだと思う。
愛する自分であることが大切なのだ。
それをプライドといえば
語弊もあるのかもしれないけれど
吉行淳之介は劣等感にさえも
一流の劣等感をもてと鼓舞した。
「ファイト!」
一通の少女の手紙がみゆき嬢を鼓舞した。

闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!   
冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

嘆きの歌姫は変身して愛を歌う
それは優しく力強い勇気のメッセージであり
愛そのものだ。

惜しみなく愛の言葉を君におくる命の限り

I Love You,答えてくれ

ほうせんか 私の心
砕けて 砕けて 紅くなれ
ほうせんか 空まであがれ
あの人に しがみつけ

ひとりで生きているんじゃない
それは決して依存とかではなく
もちつもたれつ
そうやって生かされて私たちは在る。
出会いと別れのなかにある愛が
それを教えてくれる

だから赦してあげよう。