あかんたれブルース

継続はチカラかな

あさましい思想

愛する技術という発想(46)


見なきゃよかった
というちょっと気になるタイトルにつられて
ついついペコちゃんのブログを覗いた。
その鍵付き記事の内容は
(どう考えても)おかしい
生活保護受給者のリストだったようです。
また、さらに彼女がどう考えてもおかしいと
考え込んでしまうのは
そういう人たちよりも
受給しておかしくない人の名がそこにないこと
そういう理不尽もあるわけだ。

もらえるものはもわらなきゃ損
という発想がある。
対して、それでも
もらわないことを踏ん張りにしてる人もいる。
前者が賢くて後者は馬鹿なのか?

わたしの大事な友達も
もらっておかしくない状況にあるけれど
いろいろ事情があってもらえない。
それでも健気にがんばっている。
ときどきそれがゆえに壊れそうになるのを
だましだまし踏ん張って生きている。

プライドという言葉を
この間の記事に用いましたが
その最後の踏ん張りはこれだけなのだ。
応援するほうも熱が入るよ。
と同時に、我慢比べじゃないんだから
そう無理するなというときもある。
あああ・・・宝くじでも当ったら
たいていのことは解決するんだろうけど・・
そう考えてしまう自分がいます。
でもたぶんそうじゃないんでしょうねえ。
だから当らないんだな。

以前こんなことがあった。

その友人の弱音に反応して
ある人が、だったら障害者年金を受給したらいい
と具体的な策を提示した(手続きの仕組みなど)。
その人はうつ病で障害者年金の受給だ。
そのときちょとカチンときたわたしでしたが
わたしがとやかく言う前に
その友人は丁寧にお断りのコメント発していた。
もうちゃっと頑張ってみたいと。

ホッとした反面、心配もあって
複雑な心境だった。が、問題はその後だ。
それがある人には気にいらなかったんだな。
「なぜ受けない」
それが憤りとなって自分のブログで
その愚かさ馬鹿さかげんの批判をはじめた。
それに馬太郎、怒る。
あのときはマジで怒りました。
その友人が止めなかったら・・・やってたね。
この野郎!って
ま、止められるまでもなく
相手の立場もわからんでもないし病気だし
それを責めてもしかたないかと冷静になって
そのときその友人と「最後の踏ん張り」としての
プライドというものについて語った。
わかる人がわかってればいいよね、って

無論、わたしはそういう保護を受けることに
絶対反対テコでも反対っていうわかじゃない。
ましてや、ここいでいうプライドは
世間体とか社会通念常識云々でもないし
その踏ん張りとはど根性とか意地とか
人間の尊厳がどうのこうのでもないんだよ。

がんばろうしてる人には
がんばりたいという意志がある。
できれば、その意志をできるところまで
応援するのが筋なんじゃないか
まだ大丈夫
それよりもっと大事なことがある
気づきがある
それが得られれば自ずと問題は解決できるし
そうならなかったらそれからの話で
いまはまだその時機じゃない。
なんといっても本人が踏ん張ってるんだから。
私たちにできることは
最後まで見捨てないことだ。
どんなことがあっても
とわたしは思う。
ヤキモキしたりすることはあっても

親切というものが
他人のためという大義名分から発しても
どこかでそれが自分のために
すり替わるときがある。
革命とか叫んで
みんなのためといいながら
自分のための革命にすり替わることが多々ある。
わたしはそういうのが嫌いだ。
そういうセコイ考えが成功したためしがない。

よかれと思って施行した政策が
ときとして理不尽な使われ方をして臍を噛む
そんなことってありますよね。
法の拡大解釈や法に触れなければ
何をやってもいい
もらえるものはもらわなきゃ損とか
払わなくてすむなら払わないほうが得とか
正直者は馬鹿をみるとか
そういう常識が罷り通っている。
これじゃつらいよ。
その人本人がつらいと思う。
精神的な踏ん張りがないんだからね。
そういう恐さがわかっていない。
損得でいうならば
大切なものを捨ててしまっているんだ。

政治が悪い社会が悪い制度が悪い
たしかにそうだと思う。
けれど、それだけじゃない。
個人の精神性が荒んでいるんだ。
こういう表現は厳しすぎるのだろうか

愛されることよりも愛すること
まずそれは自分自身に対してのことだ。
プライドとはそういうところにある。
どんなにダメな自分でも未熟でも
愛せるとしたらそれしかないじゃないか。
損得よりもなによりも

愛するこを技術とするならば
その愛のなかにある優しさや厳しさもまた
そういうものであり
私たちはその優しさや厳しさに対しても
思い違いをしているところが多々あると思う。