あかんたれブルース

継続はチカラかな

ありのままに愛を

愛する技術という発想(47)


ディズニー映画『アナと雪の女王』が
世界的な大ヒットを記録しているみたいです。
先週、ディズニーは嫌い(ミッキーが苦手)
という息子が観てきてえらく感動していました。
と同時に主題曲「Let It Go」こっちもいい曲だね。
http://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw

ありのままの姿みせるのよ
ありのままの自分になるの

素敵だねええ
さっき一番ソングショーでしみじみと

その余韻のあとで二階堂和美
「いのちの記憶」をこれまたしみじみと聴く
これも素晴らしい!
こちらは高畑勲ジブリ作品『かぐや姫物語』の
主題曲だよね。
昨年公開され、評価は高かったものの
大ヒットとはいえないかった。

どちらも愛を描き愛を歌ってる。

日本映画を語るとき黒澤明の存在を抜きにできない。
その黒澤明を批判する文言には
ハリウッド映画に迎合した、みたいな
決まり文句がついてくる。
ディズニー映画はそのハリウッド映画と
イコールなのでしょうね。
黒澤の後で日本映画の象徴といえるのは
宮崎駿なんだろうね。
すくなくとも深作欣二というのは馬太郎ぐらい
その宮崎駿を批判するならば
高畑勲と比較するならば
やっぱりハリウッド的となるのかな?

わたしはアメリカ映画好きですけどね。
特に50年代のアメリカ映画には
ちょっとうるさい人です。
(守備範囲は30年代から80年代まで)
因みにディズニーは好きだけど
ミッキーは苦手
なかでも声が生理的に嫌だ(笑)

日本人の偏狭な捉え方に
メジャーは不純で堕落で薄っぺらで
マイナーは純粋で崇高で本物
というような迷信がある。

商業ベースに特化したアメリカ映画なんかに
感動するのはアホだみたいな
そして誰も知らないインディーズ作品を
熱く語りハリウッドをこき下ろす。

わたしはへそ曲がりで
そっちのほうにも靡かないので
超マイノリティーなんだな。
友達すくないもん。
今日もお調子者の内藤さんの見え透いた気遣いに
「うんざりするんだよ」といって
傷つけてしまいました。
ごめんね内藤さん
観てて痛かったんだよ。

ふたつの愛の作品がある。
時期が時期だけに、わたしはなんか
高畑監督が可哀想に思えた。
同情とかじゃないよ決して
それにわたしは世間がいうほど高畑勲
高く評価しません。
ひさんな山田君、なんちゅうかぽんぽこりん
でも・・・想い出ぽろぽろは好きだったな。

作品のよしあしは別しても
クリエイターとしてヒットするかどうか
これは大きなハードルだ。
そこに盟友宮崎駿は悪戦苦闘してきた。
対する高畑勲の志は純粋で崇高で・・・
それがなんというか
羨ましいというか残念というか悔しいのだ。

アメリカという国をアメリカ人を語るときに
フロンティアスピリット(開拓精神)を
抜きにしては語れない。
と同時に、彼の国のエンターテイメントに対する
姿勢、それは精神というに相応しいもので
ちょっと日本人が逆立ちしても敵わない。
観客が、って話だよ。

映画ってなんだろう。
エンターテイメントってなんだ。
そこに芸術という言葉を持ち出してくるならば
じゃあ芸術ってなんだ。

北野たけしがこぼしていたっけ
悲劇は芸術で喜劇は評価の対象にすらならないと。

感動の涙は同情のためだけじゃない。
愛は感動のなかにあり
感動のなかに愛はある。
無論、笑いもそのなかにある。

この記事を
口うるさい映画通の高畑批判と
受け取らないでね。

それにしても
『アンと雪の女王』の「Let It Go」の歌詞
日本語訳。よくできてるね。
英語とアメリカのメロディーラインを
うまくあわせるのはむずかしいものです。
昔、日曜洋画劇場で唐突に歌われる変な歌のことを
思い出して思わず苦笑するのであった。


降り始めた雪は 足跡消して
真っ白な世界に一人の私
風が心にささやくの
このままじゃだめなんだと

戸惑い傷つき 誰にも打ち明けずに
悩んでたそれももうやめよう

ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
何も恐くない
風よ吹け
少しも寒くないわ

悩んでたことが嘘みたいね
だってもう自由よ
何でも出来る

どこまでやれるか
自分を試したいの
そうよ変わるのよ 私

ありのままで 空へ風に乗って
ありのままで 飛び出してみるよ
二度と涙は 流さないわ

冷たく大地を包み込み
高く舞い上がる思い出描いて
花咲く氷の結晶のように
輝いていたい
もう決めたの

これでいいの
自分を好きになって
これでいいの
自分を信じて

光浴びながら
歩き出そう
少しも寒くないわ

へえっくしょん!大魔王~♪