あかんたれブルース

継続はチカラかな

早計な判定がババを引く

愛する技術という発想(63)


幸運の女神フォルトゥーナを紹介しましたが
では幸運の男神は?
ハゲでチビで鶴を飼ってる頭が異常にデカイ
おっさん福禄寿。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%A6%84%E5%AF%BF#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Fukurokuju.jpg
わたしじゃないぞ、わたしは亀は飼ってるが
鶴は飼っていません。それにハゲじゃない。

誰だって幸運を願う。
そして不運を忌み嫌い、すべては運次第
と考えている。そのせいにする。
で、開き直って
生きるため、生活のため、とか弱肉強食とか
競争原理とか、なんだかんだいって
セコイ事、ズル、法にふれないことなら
バレなきゃなんでもやったるでと
それをハングリー精神みたいに信奉し
胸張って実践してる人も多いものです。

でもね、史学や運命学などから観て
そういうのってロクな目にあわない。
これホントだよ。

「だってあの人は」と納得できない御仁。
その人は歴史上の過去の有名人かえ?
ひとつはその人の足跡が正しく伝わっていない
のもあるんじゃないかな。
特に戦後のマルクス史観や作られたイメージとかで
単純に善人悪人にカテゴライズしてるのかもよ。
それぞれ立場が異なるし
嫌われ者の役を担ったって例も少なくない。
性格の良し悪し好き嫌いは別問題だ。

また、生死観の受け取り方にもよる。
例えば、戦国武将で人気の真田幸村
その父昌幸、義父の大谷吉継を不運として
戦国武将超不人気な小早川秀秋、本田正信などを
幸運だと羨望するかあ?

また、現存する人物に対しても
その一過性の事象でしから観ていないフシがある。
もう故人だけどロッキード事件以前の田中角栄
それ以降の、晩年の角栄その末路・・・
いろいろだって
内情はわからないものです。

ここに単純な法則があります。
卑しいことをやると卑しい人間になる。
狡猾な行いをすればズルッパゲ(頭じゃないぞ)。
セコイことやれなセコイ人間になる。
当たり前だ。
自分で自分を貶めているわけです。
それをもっとも知ってるのが自分自身だから
逃げられない。

例えば、近現代史山県有朋井上馨
判で押したように悪人ですが
内情はそうでもない、とわたしは考える。
特に山県は可哀想な人だと同情さえするね。

可哀想・・・そういう捉え方での
運不運はあると思う。
これは時代にも関係して後世の人たちが
どう評価するかだよね。
ゴッホだって生前はまったく認められなかった
わけです。
マッキャベリみたいに死んで何百年も経つのに
誤解されっぱなしっていう不遇の天才だっている。
(一部知識人の例外を除いて)

そう考えると多少酷なような気もしますが
当人にはあまり関係ないんだね
その評価は
そういうのは、どこまで当人が納得できるか
に関係しているんじゃないでようか。

こういうある種の達観は
愛されるため、の生き方じゃなかなか生まれない。
そういうのは往々にして道を誤るものです。

運の良し悪しとは別に
幸せな人と可哀想な人という観点から
観てみるのも一考かと思います。
そんなに単純なものじゃないけれど
根本は単純なものなのかもね。