あかんたれブルース

継続はチカラかな

哀しい小道具「素麺」

愛する技術(番外地-2番)


息子がまだ小さい頃、十年ぐらい前になるかなあ
川越で哀しい事件があった。
母子家庭の母と娘が餓死するという
最近ではよく聞くニュースになってしまったけど
その頃はとてもショックだった。

娘がまだ幼くて、幼稚園に入る前だたかな
母親は生活保護の手続きができない人だった。

この哀しい事件をさらにわびしくさせるが
素麺でした。

お金も食料も底をついたこの母娘は
もらい物の素麺でしばらく飢えをしのいでいたそうです。
素麺は夏のお中元の定番でもあった。
これが素麺じゃなくてパスタだったら
違っただろうか。カルボナーラだったら

違ったと思う。

素麺ってどこかわびしいよね。

母親の残した遺書らしきものには
部屋でふたり寝そべって
腕枕してる娘が
「おかあさん、お腹すいたね」という。
「ごめんねえ」
そう答えるしかできない愚かな母親
なぜ! と憤る人も多かったと思う。

可哀想が度を超すと腹が立ってくる。

ちょうどそのすこし前
息子がまだよちよち歩きの頃
地元の駅前公園に浮浪者の母娘が住み着いていた
ことがありました。半月ぐらいだったかなあ
母親はいくつぐらなのか年齢不詳
絵に描いたような乞食の風体で
時代錯誤もはなはだしい。
娘は、4歳ぐらい
これが残酷なくらい可愛いのだ。
無邪気に公園の木陰で遊んでいる。
それを見るのがつらくてねえ

一度、雨上がりの次の日くらいに
捨てられた傘をおもちゃにして遊んでいた。
妖精が大きな蓮の葉っぱを抱えているようで
なんともいえず絵本のような世界で
しかしその本はとても残酷なものであり
最後まで読みすすめられない。

誰か役所に通報しろよ!
でもそうなるとあの母娘は引き離されるんだろうか?

この誰か、というのが
クセモノであることをなんとなく
気づいていました。
母娘はいつの間にか姿を消していた。
ほっとしたよ。救われた。
自分の見えないところ行ってくれて救われた。
篠田節子の短編集『死神』で
そのことを痛感し、そしてすこし救われた。
十五年前の自分のキャパはこんなものだった。
力とか能力とかではなく
こんぐらいのものだった。
それを恥じています。

あの娘はいま二十歳ぐらいになっている。
どんなふうに成長したのだろうか
できれば、そういう原体験を言い訳や重荷にせずに
幸せに笑っていてくれたらいいなあと思う。

この間、ミストラルさんが久々にコメントをくれて
一家心中する母親のエゴと子供の生きる権利を
訴えていた。それはそれで正しいと思う。
けれども、なんというのか
そういった愚かな母親を責めきれない。
生きる権利。それはそれでまた残酷な気もします。
そんなこと言ったら叱られそうそうだけど
なんかねえ
権利だけじゃあねえ。それだけじゃ不十分な気がする。
まるでそれはイエスさんがいったパンのようだ。

人はパンだけじゃ生きていけない。