愛する技術という発想(69)
昨日、京浜東北線の車中で社内広告に釘付け。
ヘーベルハウスの「妻の家事ハラ白書」という
広告だったのですが、唸った。
笑った。
苦笑いだよね。
http://www.youtube.com/watch?v=5Ep3rMUWEbk
これだよ、これ・・・
このブログで再三、遠まわしに
「やさしさ」が万能ではないと訴えていたのは。
しかし、カミサマとカミサン
マとサが違うだけでこうも残酷になれるものなの?
まあカミサマってやつも結構、残酷だけどさ。
そして、もう一言付け加えれば
ここでは「何気ない」とことわりをつけてるけど
これって、ホンマに何気ない一言なのだろうか?
その発言には根深い、強い、意志がある。
そう思わんかね諸君!
それが何なのか、ここでは敢て問わない。
それを燻りだしても意味がないからだ。
茶碗は一回じゃそうそう割れない。
あるときパカッと、パカッとね
そういうもんだと思うよ。
暴言について記事にしてきましたが
なーんもわかってちゃいない。
言ってるそばから吐き散らすもんね
それにはそれなりの正当な理由があるんだろう。
逆上してようが、無意識だろうが
何気なかろうが
言われたほうは、やられたほうは、決して忘れない。
思慮の浅さ、不用意、不遜、不信、傲慢・・・
なんとでもいえる。
遠ざけているのは、愛なんだ。
フロムの「愛するという技術」とは
まずそこにあるのではないか。