浪花節の逆襲
愛する技術という発想(72)
なんでこう世の中、精神を病む人とかその予備軍
自分を見失ってる人、依存してふらふらしてる人
が多いのか・・・
ヒューマニズム的、社会じゃないからなんだ。
ヒューマニズムといってもその解釈は色々で
その人間性とはなにかで意味あいは異なる。
取り合えず、ここでは最初にこれを
「浪花節」と訳してみたいと思います。
「君、浪花節だよそれじゃ」
この台詞、東宝かどっかの役者が昭和40年代に
盛んにのたまっていたような気がします。
ちょび髭で七三の課長ぐらいの上司だ。
時は高度成長まっしぐら!
そういうわけで浪花節は流行らなくなった。
芸能としても、そしてそういう思想も笑われる。
いつしか情けというものさえも
馬鹿にしだすようになってしまった。
マカロニウエスタン気取りでニヒルでクールが
知的でかっちょいい。
寅さんを笑って観てるけどどこかで馬鹿にしてる。
あれは無学でやくざな男だと
実際にあんなのが親戚縁者にいたら
たまったもんじゃない。そういう声をよく聞く。
裸の大将山下清は天然の知的障害者だ。
同情は上から目線なんだそうな。
だから同情もよろしくないんだってよ。
情を重ねる、感情移入は同じ目線だと思うけどね。
上下云々はその人次第の心がけなんじゃないの?
「頑張れ」の禁句も同じだ。
いう人、その時々の場というか機微によるよ。
そしてそれを受けとる側の問題もある。
なんのこたーない察することができない。
すっぺらなぺらぺらな世の中です。
フロムはその生涯を通して
ヒューマニズム的選択を実践する
姿勢を貫いた人物です。
そこにはユダヤ教という民族宗教のなかに
そういった特徴があったことにも由来する。
私たちはユダヤ人(ユダヤ教を信仰する民族)を
拝金主義の銭ゲバ亡者で世界征服を目論む悪の集団
みたいにイメージしていますが、
まあそんな漫画みたいな話ではない。
代々ラビ(ユダヤ教の教育的指導者)の家系だった
フロムはその曽祖父、祖父などの影響を強く受けた。
彼らは金銭に関してことのほか淡白だった。
ユダヤ人といっても
東方ユダヤ人とか同化ユダヤ人とか色々ですからね。
銭ゲバ拝金主義はむしろクリスチャンの側で
それをユダヤ人を隠れ蓑にしてるっていうのが
歴史的にみても正しいんじゃないかな。
ここに大きな偏見と誤解がある。
ユダヤ人=金持ち
まずこの刷り込みから払拭させないといけない。
それをいうんだったら、ユダヤ人=頭が良い
のほうがまだマシかもね。
フロイト、マルクス、アインシュタインなど
20世紀に限定しても人類史に影響を与えた
ユダヤ人は実に多い。無論フロムもね。
それには理由があって、そういう環境にあった。
彼らはマイノリティーでキリスト教(教会)という
胡坐をかける場をもち得なかったのだ。
それは物理的な問題だけでなく
精神的にも「自立」する必要性に迫られる
宿命を背負っていたわけです。
哲学者スピノザもそうだった。
そういうなかで人間の倫理観というものを
重視した。それが、ここでいう
ヒューマニズム(人間性)なのだ。
私たちは社会性を学ぶなかで
理不尽な現実を受け入れざる負えないことがある。
それが実に多いものです。
そのもっとも大きいのが金の力だよね。
それと権力とかの階級制度だ。
その都度、理不尽だけどそれを呑まないといけない。
なんか子持ちシシャモの中身が砂だったみたいな
なんとも渋い表情になるんだよね。
中島みゆきが歌う
「少年達の顔が歳を取る」わけだ。
世の中とはそういうものなんだ。
仕方ないんだ。青臭いことをいうんじゃない。
浪花節じゃあるまいし、と
この社会の常識(掟)にあわせることを
強要されている。じゃないと認められない。
常識を疑え。そういう疑う知性はこと常識には
とんとお呼びじゃないいんだよね。
では、その常識とは何か?
フロムは考えたんだ。
そういったものは大多数の意見であって
大多数が好む御都合主義ではないかと。
目先の欲求を満たすだけの低俗で当てにならない
いいかげんなものだと。
それは決して人間性とは別次元のものだと。
むしろ、「純正」なものは、その対極
反対側にあると。
こういう発想は迫害され差別され孤高を
余儀なくされた民族のDNAじゃないと出ない。
ケースは違うけれど日本も地理的環境から
そういう発想に似たものがある。
ま、ユダヤ人と違って依存心は人一倍強いけど。
そういう発想は禁欲的な、社会に背を向ける
たとえば中国の老荘思想とはまた異質なんだ。
無論、改ざんされていった西洋キリスト教文明とも。
フロムが説いた
愛されることばかりに奔走する暴走よりも
愛することに基本をおくという姿勢は
彼のオリジナルなアイデアじゃない。
それはスピノザから、いやユダヤ人的な
ヒューマニズム的な(宗教的)生き方の実践
なのだ。当たり前のことだけど偉いもんだ。
そんな当たり前のことが
今の世の中は通用しない。えらいこっちゃ。
愛を説けばすかさず金の話を持ち出す始末だ。
お金が大事なのはわかるけど混同しちゃあねえ
だから混乱しちゃうんだ。
そういう一般常識のしがらみ
また、それが故の閉鎖的なものをも捨てて
フロムはスピノザ(倫理)のバトンを受けとり
一歩踏み出したわけです。偉いもんだ。
人間が人間性を失うとどうなるか
人間性を失った人間は崩壊破滅しちゃうよ。
キリスト教的西洋合理主義にはそういう危うさがある。
それは法であり、力の論理だ。
一神教の奢りとでもいうのかも
自然さえも征服しようと考える。
そこに不自然が生まれる。
同じ一神教でありながらルーツは同じはずなのに
フロムはそこから純正である
ヒューマニズムを信奉した。
旧約聖書でアダムとイブがタブーを犯したという
失楽園の逸話を、むしろ肯定的に捉えた。
つまり、はじめから悔い改めるというよりも
それがすべてのはじまりだったと考えるわけです。
反省は必要だけど反省ばかりじゃはじまらない。
言い訳が先行する言動っていうのもね(汗)。
日本人には水と安全はタダで手に入るという
贅沢な考えがある。
愛にしても同じで、それは誰にでも得られる
権利だみたいに考えているフシがある。
とんでもない。
ましてやそれ以上に、法や取り決めや制度で
すべて解決できると考えるようにもなった。
正論や正義で戦うのだ。
そこに無理があることは知っているか?
その無理とは人間性の喪失なんだと思う。
人間の営みのなかで、どうしても人間の力では
解決できないことがあるもです。
そこに信仰や宗教が生まれ、哲学が生まれた。
いまの不自然はすべてを人間の力で解決させようと
する力業であり、奢りなんだと思う。
その選択のたびに人間性を失っていくんだ。
本質である魂が途方にくれるんだ。
そして自分の本質を見失っていく。
なにもかも疑うことばかりでしか観れなくなる。
精神疾患が増えるのはこういう背景が影響している。
世直し云々のその前に
取り戻そう。まず自分自身を
なんでこう世の中、精神を病む人とかその予備軍
自分を見失ってる人、依存してふらふらしてる人
が多いのか・・・
ヒューマニズム的、社会じゃないからなんだ。
ヒューマニズムといってもその解釈は色々で
その人間性とはなにかで意味あいは異なる。
取り合えず、ここでは最初にこれを
「浪花節」と訳してみたいと思います。
「君、浪花節だよそれじゃ」
この台詞、東宝かどっかの役者が昭和40年代に
盛んにのたまっていたような気がします。
ちょび髭で七三の課長ぐらいの上司だ。
時は高度成長まっしぐら!
そういうわけで浪花節は流行らなくなった。
芸能としても、そしてそういう思想も笑われる。
いつしか情けというものさえも
馬鹿にしだすようになってしまった。
マカロニウエスタン気取りでニヒルでクールが
知的でかっちょいい。
寅さんを笑って観てるけどどこかで馬鹿にしてる。
あれは無学でやくざな男だと
実際にあんなのが親戚縁者にいたら
たまったもんじゃない。そういう声をよく聞く。
裸の大将山下清は天然の知的障害者だ。
同情は上から目線なんだそうな。
だから同情もよろしくないんだってよ。
情を重ねる、感情移入は同じ目線だと思うけどね。
上下云々はその人次第の心がけなんじゃないの?
「頑張れ」の禁句も同じだ。
いう人、その時々の場というか機微によるよ。
そしてそれを受けとる側の問題もある。
なんのこたーない察することができない。
すっぺらなぺらぺらな世の中です。
フロムはその生涯を通して
ヒューマニズム的選択を実践する
姿勢を貫いた人物です。
そこにはユダヤ教という民族宗教のなかに
そういった特徴があったことにも由来する。
私たちはユダヤ人(ユダヤ教を信仰する民族)を
拝金主義の銭ゲバ亡者で世界征服を目論む悪の集団
みたいにイメージしていますが、
まあそんな漫画みたいな話ではない。
代々ラビ(ユダヤ教の教育的指導者)の家系だった
フロムはその曽祖父、祖父などの影響を強く受けた。
彼らは金銭に関してことのほか淡白だった。
ユダヤ人といっても
東方ユダヤ人とか同化ユダヤ人とか色々ですからね。
銭ゲバ拝金主義はむしろクリスチャンの側で
それをユダヤ人を隠れ蓑にしてるっていうのが
歴史的にみても正しいんじゃないかな。
ここに大きな偏見と誤解がある。
ユダヤ人=金持ち
まずこの刷り込みから払拭させないといけない。
それをいうんだったら、ユダヤ人=頭が良い
のほうがまだマシかもね。
フロイト、マルクス、アインシュタインなど
20世紀に限定しても人類史に影響を与えた
ユダヤ人は実に多い。無論フロムもね。
それには理由があって、そういう環境にあった。
彼らはマイノリティーでキリスト教(教会)という
胡坐をかける場をもち得なかったのだ。
それは物理的な問題だけでなく
精神的にも「自立」する必要性に迫られる
宿命を背負っていたわけです。
哲学者スピノザもそうだった。
そういうなかで人間の倫理観というものを
重視した。それが、ここでいう
ヒューマニズム(人間性)なのだ。
私たちは社会性を学ぶなかで
理不尽な現実を受け入れざる負えないことがある。
それが実に多いものです。
そのもっとも大きいのが金の力だよね。
それと権力とかの階級制度だ。
その都度、理不尽だけどそれを呑まないといけない。
なんか子持ちシシャモの中身が砂だったみたいな
なんとも渋い表情になるんだよね。
中島みゆきが歌う
「少年達の顔が歳を取る」わけだ。
世の中とはそういうものなんだ。
仕方ないんだ。青臭いことをいうんじゃない。
浪花節じゃあるまいし、と
この社会の常識(掟)にあわせることを
強要されている。じゃないと認められない。
常識を疑え。そういう疑う知性はこと常識には
とんとお呼びじゃないいんだよね。
では、その常識とは何か?
フロムは考えたんだ。
そういったものは大多数の意見であって
大多数が好む御都合主義ではないかと。
目先の欲求を満たすだけの低俗で当てにならない
いいかげんなものだと。
それは決して人間性とは別次元のものだと。
むしろ、「純正」なものは、その対極
反対側にあると。
こういう発想は迫害され差別され孤高を
余儀なくされた民族のDNAじゃないと出ない。
ケースは違うけれど日本も地理的環境から
そういう発想に似たものがある。
ま、ユダヤ人と違って依存心は人一倍強いけど。
そういう発想は禁欲的な、社会に背を向ける
たとえば中国の老荘思想とはまた異質なんだ。
無論、改ざんされていった西洋キリスト教文明とも。
フロムが説いた
愛されることばかりに奔走する暴走よりも
愛することに基本をおくという姿勢は
彼のオリジナルなアイデアじゃない。
それはスピノザから、いやユダヤ人的な
ヒューマニズム的な(宗教的)生き方の実践
なのだ。当たり前のことだけど偉いもんだ。
そんな当たり前のことが
今の世の中は通用しない。えらいこっちゃ。
愛を説けばすかさず金の話を持ち出す始末だ。
お金が大事なのはわかるけど混同しちゃあねえ
だから混乱しちゃうんだ。
そういう一般常識のしがらみ
また、それが故の閉鎖的なものをも捨てて
フロムはスピノザ(倫理)のバトンを受けとり
一歩踏み出したわけです。偉いもんだ。
人間が人間性を失うとどうなるか
人間性を失った人間は崩壊破滅しちゃうよ。
キリスト教的西洋合理主義にはそういう危うさがある。
それは法であり、力の論理だ。
一神教の奢りとでもいうのかも
自然さえも征服しようと考える。
そこに不自然が生まれる。
同じ一神教でありながらルーツは同じはずなのに
フロムはそこから純正である
ヒューマニズムを信奉した。
旧約聖書でアダムとイブがタブーを犯したという
失楽園の逸話を、むしろ肯定的に捉えた。
つまり、はじめから悔い改めるというよりも
それがすべてのはじまりだったと考えるわけです。
反省は必要だけど反省ばかりじゃはじまらない。
言い訳が先行する言動っていうのもね(汗)。
日本人には水と安全はタダで手に入るという
贅沢な考えがある。
愛にしても同じで、それは誰にでも得られる
権利だみたいに考えているフシがある。
とんでもない。
ましてやそれ以上に、法や取り決めや制度で
すべて解決できると考えるようにもなった。
正論や正義で戦うのだ。
そこに無理があることは知っているか?
その無理とは人間性の喪失なんだと思う。
人間の営みのなかで、どうしても人間の力では
解決できないことがあるもです。
そこに信仰や宗教が生まれ、哲学が生まれた。
いまの不自然はすべてを人間の力で解決させようと
する力業であり、奢りなんだと思う。
その選択のたびに人間性を失っていくんだ。
本質である魂が途方にくれるんだ。
そして自分の本質を見失っていく。
なにもかも疑うことばかりでしか観れなくなる。
精神疾患が増えるのはこういう背景が影響している。
世直し云々のその前に
取り戻そう。まず自分自身を