あかんたれブルース

継続はチカラかな

意地悪スメル測定器「臭うんです」

愛する技術という発想(79)


意地悪の延長線上から有能と無能について
考えてみたいと思う。
はたして、意地悪とは有能者の特徴か
それとも無能者の証なのか
どっちともいえないでしょうが
どこかで、いつのまにか、有能者は意地悪という
図式がなーんとなく構築されて
そうすることがクール(=かっこいー)
みたいな風潮があると思わないか。

知将とか参謀、軍師の類が
そういうイメージがあるからなんでしょうけどね。
因みに銀河英雄伝説などで同じみの冷酷参謀の
原点モデルは日露戦争満州軍総司令部参謀の
松川敏胤(第一課(作戦)課長)少将だ。
遡れば家康の軍師本多正信かな

ドラマ漫画の類でいくと
『海と毒薬』の戸田(渡辺謙
沈まぬ太陽』の堂本信介
ナルト疾風伝』ならカブト
半沢直樹』であれば大和田常務
なんてお遊びはいいかげんにしておいて

意地悪から有能を連想させるのは
歯に絹着せない率直なモノ言いと
徹底した合理主義が意地悪に捉えられるんでしょう
対して無能は人の顔色ばかり窺っているから
皮肉どころこかはっきりとモノもいえない
そういう自信のなさに漂ってると。
だから有能さんの意地悪は毅然となのだ。

昨日の記事で受け取る側のことは
この際あえて考えず、
それは行う側の心がけが大事としました。
ここにこそ、有能の本質が問われている。
有能っていってもピンキリですからね。
前記した松川と児玉源太郎じゃあ月とスッポン。
軍師官兵衛石田三成の差ですよ。

その違いってなにかなあと考えたのですが
哲学というか美学というかプライドというか
矜持というか器量の問題なのかもね。
また、この有能も画一化されてきた社会にあって
とても不自由で偏ってきている。
そういう不自由な歪な社会で
有能無能で語ることには無理があるのは百も承知
なのですが、ベースがそこにある以上
しょうがないよね。
こういった履き違えた尺度も改めていかないと
ダメなのだ。

結論として意地悪は合理的でも効率的でも
効果的でもなく、みょうなガスを残してしまう。
これが世の悪臭のもとだよ。
それを人間臭いと表現する人もいる。
確かにそれはそうかもしれないけれど
人間自体が臭いわけじゃないんだ。

こういう「喩え」じゃなくて
実際に臭い人っているよね。
あれ、なんで臭いと思う?
もって生まれた体質もありましょうが
そういうのはケアでなんとかなるじゃん。
もっとも大きいのは生活習慣とか食い物とか
趣向趣味なんかじゃないか。

そういうことだよ。

納得してくれたかな?

さて、ここまでいわれたら
もう逃げ場はないぞ。
その意地悪に大義名分はないのだ。
むふふ非常に意地悪な論法だよね(笑)