あかんたれブルース

継続はチカラかな

寅さんに学ぶ 日本の恋愛規格



昨日の続き
わたしの友人でその一線を越えられない
いや越えない男がいる。
わたし同様にもうそう若くはないのだが
彼にそういう主義思想選択をもたらした
体験や背負っているものは想像するだけ。
理論派の彼が寅さんに影響されるとは思わないが
結果として寅さんなのである。

一度そのことで責め立てことがある。
どうしていつもそうなのだ、と。
みんなの幸せを祈ってるだけ
と逃げやがった。
とくに卑怯だとは思わないけれど
彼にとってわたしは自由な翼をもつ選民なのか
それとも天王子の映画館の酔っ払いなのか

ここんとこ記事の流れから考えたんですが
昨日の寅さんの危機一髪。その回避に
日本の恋愛規格(JIS=Japanese I love you Standard)
が影響していると気づきました。
このJISが確定したのは昭和18年(1948年)だ。
これは『無法松の一生』の映画公開を起点とします。
この昭和18年ってどんな時代背景かというと
現在の朝ドラ『花子とアン』の時代ですよ。
トチ狂った不自由な時代といって過言じゃない。
かといって、そのためにJISが歪んだんじゃない。
原作とはことなる商業主義が曖昧な日本人の恋愛観に
枠組みをこさえたのだった。
これに関しては過去に記事にしてるから割愛しますね。

で、率直いうと
男と女が一線を越えるとき、それを「間違い」
とするのは「契り」を卑猥とするからだ。
純愛じゃなくなる。
このニュアンス、心当たりがあるでしょう。
でもこれって矛盾があるよね。
愛し合う二人の愛の結晶が卑猥の賜物なんて
そうなると家族って・・・いったい
だからそこんところはあんまり深く突っ込まない
タブーなのだ。
名匠山田洋次はそれを知ったうえで
危険物いしだあゆみを寅さん発射させたのか
冒険したのか、それは挑戦だったのか
それとも結局、日本の恋愛規格(JIS)のなかで
当然の理として、ああなったのか

ちょっと視点をかえて
わたしは比較論として
寅さんと健さんを対比させたりします。
それくらいギャップがある。

でね、ここに日本の恋愛規格にはカースト制がある。
士農工商のような階級制度があるんだ。
健さんは士族の恋愛スタンダードなんだ。
健さんのストイックは武家のそれだ。
それに女たちは泣かされる。

じゃあ寅さんは?
寅さんはやくざでフーテンなのでその外の
一番底辺にある。
一般人との恋愛は許されない。

そして。寅さんがたとえ一般人でないリリーと
結ばれたらどうなる?
寅さん信仰はそこでお仕舞いなのだ。
偶像として、寅さんは私達の人身御供なのだ。

また、もう少し捻って
寅さんはインディージョーンズとかピカレスク
主人公でもあって、
ターゲットのロマンシングストーンとか
失われアークとか100万ドルの金塊とかは
最後の最後に海の藻屑に消えてしまう。
あれでんがな。定め、お約束。

だから寅さんと健さんは同じように不器用で
ストイックであってもまったく異質なのだ。
士族とエタ非人だ。
真ん中はないのか!となる。
ここがこの矛盾の解決のヒントとなる。
それを導くとすれば、昭和18年以前のものに
手掛かりがあるはずだよ。
それが古典落語などの男女の艶話となるわけです。
落語「お直し」の牛太郎と元遊女の夫婦愛とか。
士農工商の工とか商ね。町人平民の恋愛観。
本来寅さんはテキヤ稼業なのでこれに類するはずですが
寅さんの個人的な事情とJISの関係
そして寅さんの役割と存在価値がそれを許さない。
寅さんの恋が成就したらいけないんだ。
そこに救いがあるから。

「アホ、寅はそういうことをせんのが
 ええとこやないか」

寅さんはやっぱり神様なんだ。