あかんたれブルース

継続はチカラかな

ギャツビーを抱きしめたい。



DVD鑑賞第2シーズン第四弾は
華麗なるギャツビー』(ディカプリオ版)
でした。
原作はF・スコット・フィッツジェラルド
アメリカ文学最高峰と
謳われる同名小説。
ロバート・レッドフォード
華麗なるギャツビー』は知っていたけれど、
実は観ていない。
きっとマックインの『華麗なる賭け』と
ゴッチャになってしまって
いたんでしょうねえ。
無論、原作も読んでいない。
まさかこんな作品とは知らなかった。

そんなわたしが観ようと思ったのは
律子に強く奨められたからだった。
「ギャツビーが可哀想・・」だと。
彼女のいう通りだった。
とても切なくやるせないこの物語は
禁酒法時代のニューヨークを舞台にして
悪夢のブラックマンデー
世界恐慌で終止符が打たれる。
その間の狂乱のバブル時代に
ギャツビーという男がいた。

素晴らしい作品だね。94点です。
ディカプリオがいいです。
はたして、
レッドフォードがこの男の淋しさを
表現できたのかどうか?
前作もちょっと観てみなきゃならないな。

この作品観ててまったく変なことを考えていました。
ひとつは、長谷川伸がいった色気とは「一途さ」
という言葉です。日本の股旅物の戯曲家と
考え合わせるなんて変でしょうが、
ギャツビーを一言でいい表すとすれば
この「一途」なんだよなあ・・・

そして、純愛。だからこそ、なのかもね。
その意味で男のほうが断然、ロマンチストだ。
女は・・・薄情、かもしれない。

もうひとつはギャツビーと寅さんを重ねてしまった。
フーテンと華麗。まったく真逆だけれど
この二人は背中合わせ二卵性双生児かもしれない。
ふたりともコンプレックを背負っている。
寅さんはそれで逃げを打つけれど
ギャツビーはそれを払拭させて掴もうとする。
それだけの能力、いや意志の強さがあった。
でもねえ、結果はとても哀しい空回りなのだ。
人間の能力というものを、有能無能を、
考えさせられるよ。

そんなギャツビーを、作者(ニック)は
「みんなクズばかりだ。君だけが価値がある」
と言う。これが最後の言葉になるのだけど、
作者は、言っておいてよかった。それが、
唯一の賛辞になったとふり返る。
そのときのギャツビーの、ディカプリオの笑顔がいい。
能力があって自信家のギャツビーが
とてつもなく淋しがり屋で純情で一途で愚かで
もうせつなくて抱きしめたくなってしまう。

「みんなクズばかりだ。君だけが価値がある」

昨日観た『陽だまり彼女』にも健気な子猫が
後戻りできない過去を時間を必死に追いかける
健気さ一途さがあった。
でも過去は、時間は、どうあがいても
もとに戻せないという。
ギャツビーは暗闇のなかの入り江の対岸にある
青い灯に手を伸ばし、それに近づこうとする。
そのコンプレックスが故に遠回りしてしまった
五年の歳月を取り戻そう追いつこう、埋めようと。
そうはいかないんだよね。
それは愚かなことだけど
その愚かさを批判できない。
寅さんだったらその五年で10人のマドンナに恋して
ふられて、いや逃げてかな
今日もどこかの旅の空だったと思うよ。
ギャツビーは逃げることを頑なに拒んだ。
まるで次郎長一家の森の石松のように
強すぎたんだな。

いや、やさしすぎたんだね。

しかしなあ・・・西原のちんこ文学との
このギャップ、オジサンにはとても埋められない。
戦後みっちりアメリカンナイズされた日本人ならば
この1920年代のアメリカ文学の代表作なら
十分理解できて、また今の喧騒の社会環境にあっては
十分感情移入できるはずだ。
なにい? わからないいっ?
勝手にしなさい。オジサンはもう知りません!

グレート ギャツビー
直訳ならば、偉大なるギャツビー
そして俺はメガ馬ピー、ギガ馬ビー!
なんか下痢みたいだなあ(汗)
気をつけろギガだと痛いぞ。