あかんたれブルース

継続はチカラかな

ダウン症の子と好色一代男



昨夜、ダウン症を扱う番組を観てしまった。
いろいろ考えさせられるのですが
そのなかで、
今年の夏にオーストラリア人夫妻が
タイだったかの代理母を通じて代理出産
行い双子が生まれた。が、内一人だけ
引き取って帰国。もう一人の赤ん坊の引取りを
拒否した、その子が障害児だったから、だとか。
というニュースを紹介していた。
わたしは知らなかった。初耳だった。

まあ色々な意見や賛否はあるんでしょうが
自分のことに置き換えて、よくそういうことが
できるなあ・・と考えちゃう。

そりゃねえ、障害のある子を育てるのは
いろいろなリスクや問題があるでしょう
わたしもKちゃんが生まれてくるときに
そのことでけっこう悩んだものです。
それまでのわたしという人間は
そういう障害児であるのなら、堕すという
選択をすると胸張っていう奴だった。
その子の人生に責任が持てないという
大義名分があった。
しかし、実際妻が妊娠してお腹の成長から
その生命の誕生を意識しだしてから
考えが徐々に変わっていきました。
多くの先輩たちにも相談し意見を頂いた。

結局、妊娠中の検査はしなかった。
その結果を知って、もし異常があったら堕すのか?
キレイ事ではなく、どんな子であっても
大切に育てる腹ができたのでした。
そして、出産、ご対面・・・
正直そのとき五体満足と聞いて、嬉しかった。
なんかセコイ話だよね。

でもさ、それでもそれまでの自分と
そういう腹ができた自分とは違う、変わったと
思うわけだ。それもある意味息子のおかげだと
思うわけだ。

で、さっきのオーストラリア人の話で
合点がいかないのは
自分の血をわけた遺伝子を有する、分身が
自分の知らないところでどんな境遇で生きているのか
気にならないものだろうか、と
たとえば、売春ツアーとかで東南アジアとかに行って
もしくは千葉とか群馬のフィピンパブで知り合った
フィリピーナといい関係になったりして
現地妻で子供も生まれて、最初は仕送りしてたけど
途中でプッツリとかのオヤジが、いるよね。
ああいうの気にならないのかなあ?
自分の分身が極貧で劣悪な環境でゴミ漁ってる
かもしれないと思ったら夜中に寝汗をかいて
目が覚めて、その後眠れない
狂おしい夜に苛まれるんじゃないのかなあ・・?
じゃないわけ?

山崎豊子原作で市川昆監督・市川雷蔵主演の
『ぼんち』(1960年)を観ました。
これ、放蕩一代記みたいな作品でして、
ちょっと前にトリックスターさんが
里見惇の『多情仏心』のレビューをアップしてて
(これも放蕩をテーマにした作品)
まったく偶然なのですが、不思議なシンクロです。

この「ぼんち」とは関西弁で
ボンボンの上等のもので「器の大きい坊ちゃん」を
意味するとか。ホンマモンの粋人、極道です。
四代続く大阪船場の卸問屋の若旦那(雷蔵)が
大正末期から激動の昭和のなかで
複数の妾を持ちながら
数奇な半生をおくったという物語です。

でね、婿養子である父親が息子(雷蔵)に
「ええかあ、遊んでいいがぼんちにならなあかんで」
なんて薫陶する場面がある。
そんな素養があったのでしょうか、もともと人の良い
雷蔵ボンは女道楽(ぼんち道)に励みます。
外に妾の腹の子も二人作っている。
でもね、このぼんちは女を不幸にしない
みょうな仁徳があるんだな。
空襲で焼け野原になった大阪にぽつんと
ぼんちの蔵がひとつだけ・・・
何もかも失ったところに、そこに妾が3人押しかけてくる。
それらに全財産を六等分して分け与え
取り合えず岸和田の菩提寺のお寺さんに行ってろと
疎開させてしまうのですが
この妾たちがその後もみんな仲良く共同生活してる件。
そして、里子に出していた二人の子供も戻されて
それを引き取って育てている
そんなわけかというところで映画は終わるのでした。

好色一代記といえばそれまでですが
女を決して不幸にしないという美学、なのかな
文化? そんあこといったらフェミニストさんに
どやされそうですが
上記したどうしようもない男どもと比べたら
スケールが違う。
それを「甲斐性」っていうのでしょかね。
無論、経済的にもあるけれど
それだけじゃない精神的なものさ。

日本の近代化の歩みには
「一夫一婦制」があります。
これじゃないとおさまらないのが今の世の中だ。
でもさあ、平等である前提のなかの無理
つまりそれさえできない者もいるわけだし
それこそ一人で多数という能力を有する者いる。
そういうのを、ある種の病気とか好きものとか
そういう尺度じゃなく査定するのもアリかと
わたしは思うんだけどね。

まったく違う話(障害児と放蕩)なのですが
わたしはみょうにリンクしちゃって(汗)

『ぼんち』78点でどうでしょうか
機会があったら是非どうぞ。お奨めです!