あかんたれブルース

継続はチカラかな

クリエイターのソールドラキュラ



任侠と掟について、もう少し

この任侠というものが中国産だということは
知っていました。今だったら信じられないよね。

その元祖は春秋時代の晋の忠臣
公孫杵臼と程嬰からではないかといわれる。
宮城谷昌光の『重耳』で知られる
流浪の王子文公が19年の逃亡生活から帰国して即位。
その側近だった趙氏は
代々晋の重臣として晋王を補佐しました。が
それを快く思わない奸臣と景公によって
一族根絶やしの絶対絶命の危機に瀕する。

その遺児を守ったのが公孫杵臼と程嬰です。
先に忠臣と記しましたが、これは正確じゃない。
だって、ある意味で主君である景公に背き
趙氏の血胤の赤子を守り逃がし隠したのだ。
これじゃあ忠義じゃないよね。
このとき、二人は生きる方と死ぬ方の役割を決め
公孫杵臼は同年代の赤子を身代わりにして
自らも死んで、公子の行方をくらませた。
後を託された程嬰が見事公子を守り
のちに趙氏を再興させるのですが・・・

この話は任侠が必ずしも忠義じゃないこと
それと義理というものが忠とはイコールじゃ
ないことをあらわしたものですが
わたしが気になったのは
身代わりにされた赤子のことです。
どこから入手してきたのか・・・
かどわかされた両親の悲嘆は・・・
こういう点では古代から中国人の生命の価値は
低いものだったのかなあと考えてしまった。
飢饉になったら他人の子供と交換して食ってしまう
そういうお国がらですからねえ(汗)

ところが、後日談で
この赤子は実は公孫杵臼の実子だったってことです。
それがとってつけた後付だったかどうかは
この際あまり関係ないのだ。
後の時代にそうじゃなかったら間尺があわない
そういう時代環境からそれが生まれたってことだね。
これが前回記した歴史というものであり
例の「お約束」というやつなのだ。

実際こういうのは映画とか芝居、ドラマなんかで
筋立ての整合性なんかを吟味するのに
重要なファクターとなる。
そう考えるわたしも相当毒されてるかもしれませんが
とにかくそこにはそういう掟があるんだ。
こればっかりはそうそう直ぐには変わらない。
価値観以上に強固なものです。
もっといえば道義とか
倫理といっても過言じゃいかな。

職人とかプロとか保守本流の本格派は
こういった鉄則のなかで練るわけですが
これをもっとひろげてクリエイターとすると
そのテーゼをアンチで覆したくなるものです。
大方は成就しないし成功しないものです。
しかし時代や環境で抜け目隙間が生じる。
抜け目のない者はその尖端を突くわけだ。
よくいえば斬新とか独創的とか個性的ですが
皮肉に捉えれば奇をてらうとか外連とか
ハッタリツッパリハイスクールララバイだ。
それが園子温であり、
たけしもこのなかに入るのでしょう。
たとえ実話が下敷きになっていようがいまいが。

結局、園子温あたりがハッタリかましてる世界は
こういったお約束の上のお釈迦様の掌で
粋がってるだけの、猿でしかないと
わたしははっきり言うね。
突破口はそこじゃない。

つまりは真説逆説珍説はキワモノでスタンダードには
なりえないわけで、信長殺しは光秀ではないとか
上杉謙信は女だったなどの八切止男流は
どこまでいっても徒花程度で紺碧の艦隊がせいぜい。

じゃあ本筋の正史とかスタンダードが
正しいかというとこれが怪しい。
でもそんなことは関係ないのだ。

話を任侠にもどせば、
これをがっちり固めのは東映任侠路線の
鶴田浩二健さんの我慢劇で非常にストイック。
しかしここに人情<義理=忠義の誤解がある。
もともとの任侠はもっと自由の度合いが強い。

日本で任侠、侠客、やくざというものが生まれたのは
徳川元禄時代の町奴の誕生から、といって
そう間違いじゃない。
町奴は旗本奴と喧嘩するために生まれた。
これに、火消しやら相撲取りなんかが
三すくみ四すくみとなってバトルロイヤルです。
もう無茶苦茶な無法地帯ですからね。
利害も希薄で、旗本奴がこのような死闘をやったら
即、切腹という厳しい処分にも関わらず
闘争は激しさを増すばかり。
泰平の閉塞感から生死観が極まってたことや
男色なんかも関係してる思われます。

やくざが利権に傾き合理的になるのは
江戸後期じゃないでしょうか
清水の次郎長と黒駒の勝蔵の縄張り争いは
生糸産業の利権が原因のようですからね。

もともとやくざは武士から派生したものですが
後年は管理社会に辟易してドロップアウト組も
多かったようです。
次郎長の一の子分大政もその一人。
つまり任侠社会にはまだ自由があったわけだ。
その自由とは弛みであってデタラメが多少許される
という自由と解釈してくれてもいい。

やくざは博徒テキヤに別れますが
戦前までの博徒には博打という稼業があった。
それが戦後、ほとんどが国が管轄するようになって
シノギに不自由をきたしたので、生業を拡大させ
地下にもぐってマフィア化したのはご存知の通り。
そして組織化されたわけです。
やくざもノルマに苛まれている。
そんなところに任侠はありません。

ただし、東映Vシネマなどで描く
組織暴力の世界が単なるブラック企業であれば
そうそう維持温存はかなわない。
ゼンショーすき屋の乱のように内部崩壊が起きるのは
これ自然の理なのです。

ま、どうせやくざだし暴力団だし
というトコロのデフォルメなんでしょうが
そういうハッタリを鵜呑みにする馬鹿がいる。
こういう薄っぺらいものがスタンダード化
しちゃうところに時代の危うさがあるものです。
本家本元の犯罪だって同じさ。

たけしの場合は浅草時代に興行の世界から
松葉会とか住吉なんかのやーさんの世界は
いろいろ見聞体験してきたことでしょう。
だったらなぜもっときめ細かい構成にしないのか?
それが解せない。

たけしが今後も映画を撮るのであれば
それに見合う作品にチャレンジしてほしいと思う。
もうバイオレンスの時代じゃないんだ。