あかんたれブルース

継続はチカラかな

裏切り御免の武士道任侠道



昨日の『マッサン』でマッサンがエリーに
日本人は義理と人情を大切にする。
とレクチャーしておりました。
ふと、そこで意外だった。
どこかで、
義理と人情秤にかけりゃあ
義理が重たい。が常識化していたのだ。
これは健さんが昭和残侠シリーズで
歌った主題歌「唐獅子牡丹」の一節だ。
1960年代半ばからの話です。
この出だしのイントロで注射されちゃって
私達は 義理>人情 と考えるようになった。

それ以前は、義理と人情は比較できない
次元の違う、どちらも大事なものであり
それをどっちかといわれたら
カレーとご飯の関係でどっちか選ぶとしたら
片手落ちで、困ってしまう。
で、結局、カレーとライス秤にかけりゃあ
カレーが重たい男子の世界となったわけだ。
この気持ち、小学生になったつもりで考えれば
わからんでもないけれど
やっぱりカレーにライスは必要だ。よね

しかしなんで義理と人情を秤にかけてしまったのか?
健さんの台詞に
「お前さん方にはなんの恨みもございませんが
 渡世の義理です。死んで貰います」
なんていうのがある。
つまり、健さんの修羅は遺恨ではなく
渡世の義理からの殺戮なのだという
大義名分であります。
しかしまあ実際は「我慢劇」でありまして
死んでもらう天津敏や金子信雄らは
何度殺しても飽きたらない奴らなんですけどね(笑)

そういう都合で拵えられた方程式なのですが
それがいつしか人情を軽んずる結果となった。
ああ人生航路「責任者出てこい!」です。

この義理とは、あくまでも
組織や共同体のなかの礼儀作法お約束プロミスで
そこには有形無形の貸し借りが生まれる。
それをちゃんと返さないとカッチョ悪いのだ。
で、それが積もり積もると複利になって
身動きとれなくなってしまうという危機感だけが
募ってしまう症候群に陥るという強迫観念も
生まれるようです。
そこから、「借り」を回避しようと考える。
一見、清廉のようでもありますが
これが高じると
「おやようございます」と挨拶しても
返事もしない無視して
できるだけ他人と関わりをもたないようになる。
なってしまった人が5000万人ぐらいいる。
困ったもんだ(汗)

話を義理に戻せば
結局はこれって武士道が主従関係の忠義と
すり替わったのと同じで
組織共同体の体面、見栄、面子なんだよなあ
それがちゃんと保てるかどうかに
「人情」が必須なのにも関わらず
それを秤にかけて甲乙をつけてしまったわけです。
さらに不味いのは健さんが神格化されてるので
そのことに疑問をもたない。

そういうのって城山三郎などのビジネス物にも
ありありと窺えるのであります。
現代人はそういうトラップに悶絶しているのだ。
時計のネジを戻して
黒澤明の『隠し砦の三悪人』の田所兵衛のように
「裏切り御免!」と爽快にやってほしいものだ。