あかんたれブルース

継続はチカラかな

もうひとつの幸子とナツ



幸子は、といってあの幸子ではない
野々村幸子である
しかしNHK朝ドラの野々村幸子でもない。
運命の歯車がちょっとずれて
時代設定が半世紀ほどズレてしまった野々村幸子だ。
したがってエリーとも出会っていないので
誕生パーティーのパンもありません(涙)
そうなるとどうなるか
亡き母を想い新しい母に馴染めず
そして父親に反発し、成長していった幸子。
高校時代になるとグレてしまい非行に走り
よく家を空ける様になった。
積み木崩しだ。
妊娠してしまい父親は激怒し
否応もなく中絶させられてしまう。
よくある筋立てだ。
それが彼女と野々村家の関係を決定的にした。
その後、すぐに家を出て以後二度と
野々村家の敷居はまたいでいない。
父親の葬儀にも参列しなかった。
現在は滋賀の大津で生活保護を受けながら
三番目の夫と生活しているという。
因みに野々村家は没落してしまっている。

ナツはどうしたんだろう
姉の幸子とは違いまだ幼くて
新しい母由起子とはうまくやっていた
はずの、あのナツは・・・
やはり由紀子と折り合いが悪くなった。
最初はうまくやっていたんだ。
それが、由起子が妊娠して
ナツに妹ができて
母親由起子の態度が豹変する。
よくある筋立てだ。

父親はナツに対して愛情をもって育てたが
そこはそこ、あの野々村茂性質である。
長女の幸子がああだったから
余計にナツを厳格に育てた。
良き妻に良き母になることが
女の幸せであるとと信じて疑わない父親であり
それが野々村茂の愛情だったのだ。
その期待に応えようとナツは努めた。
けれども野々村家にはナツの居場所はなかった。
そのことを誰よりもナツ自身が自覚していたのだ。
高校に進学したとき、姉は家を出てしまっていた。
ナツはいよいよ孤立しその居場所を完全に失った。
家では父親の期待にそう娘として
母親と妹に気兼ねしながら
従順な娘を精一杯演じていたけれど
外では万引きの常習者で違う顔をもっていた。
彼女なりにガス抜きしていたんだろう。
高校を卒業すると父親の希望と口利きで
地元の銀行に就職した。
本当はパン職人になりたかったのだが
そういうことを父親が決して許すことはないと
ナツはよくわかっていたのだった。
社会人になったらパーマをかけないと
父親にいわれればパーマをかけた。
電車は阪急電車に乗りなさいといわれれば
多少遠回りしても阪急を利用した。
そういった意味でもナツはものわかりのいい
従順な娘であり、そのように育てた父親は
ナツを銀行員か何か固い勤め人の男と結婚させて
良妻賢母としての幸せな人生を送らせようと
考えていたようだ。
ところが、ある時を境に
ナツはそれを拒絶したのだ。
このままでは自分を見失ってしまう。
ナツの従順な娘としての演技は限界に達していた。
このままじゃ駄目だ。この環境この家から逃げよう。
そう囁いたのはもう一人のナツだった。
家の内と外での異なる顔から
ナツのなかでもう一人のナツが育っていた。
それは従順なナツとは対照的なナツだった。
入行して三ヶ月も経たないうちに
ナツは退職し家を飛び出してしまった。
それは無計画で衝動的だったかもしれないが
ナツとしては前々からの計画的犯行で
確信犯だったかもしれない。
いまにして悔やまれるのはボーナスもらって
辞めればたらよかった、ぐらいである。
父親は激怒して姉同様に勘当状態となった。
よくある筋立てだ。

朝ドラ『マッサン』は史実をベースに
書かれたドラマであって
やがて実際のマッサンはウヰスキー造りの夢を
現実のものとし、ニッカウヰスキーを創設する。
そのドラマに登場する彼のパートナー
異国からやってきた妻エリーや
鴨居商店とか住吉酒造のモデルとなる会社が
存在したことは確かなのだが
野々村家という家庭があったかどうかは
わたしは知らない。
それがどのようにマッサンとエリーのドラマに
影響するのかも泉ピン子にしかわからない。
狡猾なピン子はそれをネタにして
全国のお茶の間を絶叫させたという。
これ、昨日の話ね(汗)
それでもフィクションであるとはわかっても
ドラマに感情移入して毎朝心を揺らす
あんぽんたんのわたしは想像してしまうのだ。
レバタラという「if」のツマミをちょっと捻るだけで
話はいかようにでも進展していく。
一人歩きするように勝手に・・・
だからさほど頭を悩ませたりすることない。
それどろこかそういった幸子やナツを
実際にわたしは知っている。
その後の幸子やナツをもっと詳しく
紹介することだってわけないのだ。
幸子の二番目の夫は京都会津小鉄の極道だったとか
ナツのその後の人生だってすらすらと書けるさ。
それはフィクションという勝手放題ではなく
そういう幸子やナツの存在が裏打ちされてる
こともある。
それは作家というものが
あるお約束にそって物語を構成していることもある
のだけれど
だけでなく、歴史のパターンとして
そういうものが存在しているからに他ならない。
とくに100年ちょっと遡るだけの資料に
目を通せばある種の傾向やパターを、法則を
俯瞰することはさほど難しくないと思う。

その傾向として
フィクションなのかもしれない野々村茂は
その時代人として、その時代の環境やトレンドに
強く影響された人であり
本人はそれはそれで自分としてはベストだと
信じて疑わなかったはずだ。
けれども結果はどうだったのか?
病身のベッドで最後を向かえるそのときに
ナツの介護をうけながら彼は何をどう
考えただろう。
人間一人の人生の儚さ短さあっけなさ。
彼の幸せな家族計画は失敗に終わった。
エリーのような存在がいなかったことを
彼は不運に思うのだろうか?
そんなことは思いもよらないけれど
ただ不運で片付けることは十分に有り得る。

人生いろいろ
人それぞれ100人いれば100通り
イナバの物置ではないけれど自由自在です。
でもね、作りもののドラマじゃなくとも
私達はあるお約束、パターンのなかに拘束されいる。
それが時代性とか環境とか常識のトレンドなのだ。
ただそういってしまうと角がたってしまう。
またそう認めてしまうとミもフタもないので
だれしもが
運不運というつかみどころのないものの
せいにしてしまうのだ。

はたしてこれは妄想か戯言お遊び与太の類か
それとも科学か哲学か都市伝説か

わたしはこう思う
ただそれだけ
それを記してみました。
思ったことを忘れないうちに。
忘れっぽいんだよね、最近とみに(汗)