あかんたれブルース

継続はチカラかな

捨てる神拾う神それぞれの愛

それでも花は咲いていく 7


長崎ぶらぶら節』のなかで
娘お喜美(高橋かおり)は幼い頃から
親切にしてくれる愛八を実の母でないかという
思いを残して女郎に売られていきます。
そのことを聞いて数年後に愛八はお喜美を捜す。
やっとみつけた手掛かり
けれどもすでにお喜美は上海に転売されていた。

満州ハルビンだとか台湾、上海・・・
内地を離れてそこまでいくと二度と帰ってこれない
そういう響きがあります。

この作品では女郎屋の主人が昔愛八に世話になった
元力士だったことから、その恩返しにと
お喜美を連れ戻しにいく。
この甘さがなんともよいのです。

それを眺めながら
わたしは同じ東映の『博奕打ち』(1967年)で
鶴田浩二は上海に売られていく二人の女を
そのままにして
悪党退治をして映画が終わったことでした。
このラストの単身殴りこみは
兄弟分の待田京介の敵討ちなのですが
待田京介はこの二人の女を救出するための殺された。
しかもその一人は鶴田の恋人という設定。

なぜあの女たちは見捨てられてのだろう・・・
ご丁寧に列車のなかの二人が寄り添って
泣いてる場面も挿入されていたのに
鶴田は敵討ちに夢中です。
脚本陣(小沢茂弘 、 村尾昭高田宏治)の
キメのツメの甘さとは思えない。
ましてや会社の意向とも。

10日ぐらい考えました。

義理と人情を秤のかけて?
そんなんじゃない。
二人の女が遊女で底辺のオンナだったから。
いや、誤解しないで
底辺の傷物だから持て余した
そんなんじゃないんだ。むしろその逆。
あの映画の最後の4,5分で二人を助けることは
そう難しいことじゃない。東映だもの
若山富三郎一人二役にして
シルクハットの大親分でも登場させれば2分で解決だ。
なぜ、小沢茂弘は見捨てたのか・・・
それは、彼女達を助けたら底辺じゃなくなってしまう。
あの二人よりも不幸な女たちが途方に暮れてしまう
そういうことを危惧したんじゃないかと
勝手に考えてみました。

長崎ぶらぶら節』では
あえて上海から連れ戻してくる。
それが身受けしてきたのか
一時休暇なのかはわからない。
その場面の演出は雑でお喜美は長旅を
羽織なしの遊女姿の赤い長襦袢のまま
連れ戻した元力士の女郎屋の主人が自分のコートを
貸すのですが、その姿がなんとも沁みる。

結局、愛八の死で
お喜美は永遠に再会することは叶わなかった。
そうじゃなくても「お母さん」と
よんでみたかっただろうに
また、愛八もそれを否定はしなかっただろうに。

残酷なやさしさとやさしい残酷

それ以上に、愛八は会わぬと決めた古賀に
「会いたい」といって死んでいく。
見事といえば見事ですが
なんとも厳しい愛のかたちだった。

奇しくも
愛八をライバル視する米吉(高島礼子)が
こぼした「あん人の真似ばできない」という
敗北宣言が如実に語っていた。

恋愛には格がある。