あかんたれブルース

継続はチカラかな

昔の人はこんなものとなめるな

厄介なひとたち 7


『マッサン』の北海道篇
ピン子の呪縛から解放されてやれやれと
見守っていましたが、どうも展開設定が
腑に落ちない、特に今日の回にしても。

また例によっての(風間杜夫を用いての)
明治人の豪放磊落、頑固一途な気質ですが
一度故郷を捨てたからといって
いまさら「裏切り者」の烙印を復活させるかね?
だって戻ってきて成功したときは不問で
借金で落ち目になったら、また復活という
それじゃあ会津人の見識を疑うけどね。

なんにしても設定に無理があるよ。

ま、それはいいとして、
役者の力量もあるんでしょうが
『マッサン』の玉山鉄二や八澤俊夫の
明治人の気質というのがいまいちピンとこない。
ついでにいえば再放送『梅ちゃん先生』の
父親役高橋克実にしても変だ。

玉山鉄二は間の取り方が不味くて
演技が前のめりになってるのでタメがないんだね。
毎度アップアップして自己主張してる。
八澤と高橋はトレビアの泉のコンビ
芸達者なはずなのですがコミカル以外は苦手?
どうも単なるツッケンドンの偏屈にしかみえない。

この違和感は昔の寺内貫太郎一家でもあった。
やたら小林亜星が怒りまくり暴れまわる。
それを茶の間は喜んでいたようですが、
わけわからん。
(それだったらたけしの菊次郎とさき
 菊次郎の暴挙のほうが納得がいく)

戦後生まれの私たちはそういう風にしか
明治人を受け取れないのでしょう。
これは役者だけのせいじゃくて
脚本家演出家にも責任があると思う。

これは前から感じてることなのですが
テレビとかドラマとかは虚構であり
そこで描き出されるキャラクターからし
作り出されたものだ。
通常リアルタイムな舞台設定であれば
自分の体験にもとづき重ね合わせてみる。
それさえドラマに押し切られてしまうことも
あるし、第一考えないこともある。

登場人物や設定が
見知らぬ明治人とか戦前の時代だと
ついついそんなものかと納得してしまうものです。
洋画なんかでもフランス人が考えること、と
曖昧に流してしまうことみたいな感じかな

観る側も作り手も観念的になっちゃうのかもね。
まあこんなもんでしょ。
どうでコラーゲンでしょ。とかね

恐いのは、そういった虚構の観念が
一人歩きして植えつけられ思い込まれてしまう
ことではないか。
画一化されていく認識とでもいうのかな。
戦前の人間はこうだった。
戦前は軍国主義一色で
日本人はそれに染まり明治以降侵略戦争
繰り返した頑迷頑固な低俗な国民だった
みたいなことで進歩的文化人は捉えている
フシがあります。
ええっ、こんな有識者の先生が?
という人がそういうイメージに凝り固まってる
場面に遭遇することが多い。
そうなると厄介で、なかなか話は通じない。

たけしのやくざ映画を批判しましたが
あれは朝鮮やくざの世界なのだ(戦後の)。
暴力団ブラック企業化してってこと。
しかし、恐いのはそれがスタンダードになってしまう。
昔、東映実録路線が流行っていた頃
新宿昭和館ではやくざが舎弟を連れて
鑑賞しながらセミナーやってたもんね。
あれは、ああで、あいつは誰それのことだ、とか。
だからああいった映画のなかの倫理観や思想が
定番化していく怖れは十分にあるんだなと。

話をもとにもどして
明治は遠くなりにけりなんて申しますが
戦前の日本人は今の日本人とは違う。
堅気もやくざも。
何が違うかというと価値観が違います。
生死観が違う。
豊かさの捉え方も違えば、個々のプライドも違う。
守るべきものが根本から違うようです。
精神性のことなのですが、
その精神性自体を否定した結果が現在のこれだ。
どこかで戦前の日本人の精神性をタブー視している。
これは厄介なことで
そう簡単に一刀両断できるものじゃない。

それを進歩的な文化人とやらやるからね。
思い込みなのか、愛国心(?)なのか
そこにある歴史や事実を決して認めようとしない。

そういう不自然や矛盾がここにきて
抜き足ならない事態に追い込まれている
んじゃあないかと、思うわけです。

デフォルメされたものが実体化されていく。
戦前であっても軍人にもいろいろな人がいたんだ。
み~んなが天皇陛下万歳で強気一辺倒だった
わけじゃない。
そういう人も多かったけどそれは建前で
その多くがハッタリで、実質は流された
というのが真相なんじゃないかな。
だから雰囲気とかイメージは大きいんだよね。