あかんたれブルース

継続はチカラかな

追い込まれたら仕舞いが88%

正論と現実の間で 2


たかがドラマの話じゃないか なのですが、
今朝の『マッサン』は心が痛んだ。
エリーの正論の主張にウルウルさせられた。
昨年秋からずっとエリーの奮闘を見守って
いたわけですからね。理不尽な話だよ。

軍国主義が悪い軍部が悪い特高が悪い
でもそれと一緒になってた国民民衆だって
同じだ。そこが恐い。

それもあって前回、正論と現実の間という
記事をアップしたのでしたが……
実はわたし最初からエリーははやく英国に
帰るばきだと考えてしまう方なのです。
だからマッサンの葛藤に感情移入できない。
そのくせ、エリーの正論に頭を垂れてる。

今朝の放送のなかでエリーの主張に対し
風間杜夫の困惑した表情から
「そうはいっても、」という言葉が過ぎった。

わたしたちはよく
理想とか正論とか正義などに対して
それと現実と照らし合わせて
「そうはいっても、」という言葉で
お茶を濁したりとか話をそらしたりとか
先送りさせたりとか弁明めいたストッパーを
かけてしまうものです。
先送りって表現もアレですが
たとえそうでも現実と照らし合わせて
カードの切り方ってあるわけで
非力な自分一人がとてつもない現実と
喧嘩するわけにもいかないわけだ。
年齢を重ねるほどにそういう世知が働くものです。

もっといえば、時代には逆らえない。
マッキャベリは時代性について、
それに抗おうとするものは死ぬとさえ
明言していた。

では、どうしたらいいのか?
その気分が雰囲気が大きくなる前に
うねりをあげて時代性に成長する前に
軌道修正するしかないんだろうと思う。
ほおっていくと
とんでもない化け物になってしまう。

というと、あたかも今の風潮
たとえば野党や一部の市民団体の在り方を
正当化するように聞こえるかもしれませんが
そうじゃない。そこに落とし穴がある。

その落とし穴、罠とは私たちの無責任さだ。
「そうはいっても、」というのは
本当に追い込まれた者でないものから
うまれる発想です。
切羽詰ったらそんなことはいってられない。
そこまで追い込まれないとなにもできないの?
ではなくて、無責任かどうか
ここがポイントなんじゃないのかなあ

どれほど追い込まれようと
その時ではどうしようもないってこともある。

トリックスターさんが
コメントのなかで、「犯人探し」の時代
という言葉を添えてくれました。
まさにそれだよね。
誰も責任をとらないぶん、その責任を
誰かに押し付けることに奔走している
いまはそういう時代なんだと思う。

そんなんじゃ身動きとれなくなるだけで
予防にも歯止めにもなりはしない。
想像力のない無責任な人々の発想がやがて
とんでもない時代性を生んでしまう。
それが恐いのだ。