あかんたれブルース

継続はチカラかな

危ないバス



昨日の続き

テロとは別に
ドイツ旅客機事故とJR福知山線脱線事故
重ねた人は多かったのではないでしょうか。
こちらは(過剰勤務)管理システムの
プレッシャーからのパニックなんでしょう。
また過剰労働からの過失としては
高速バスの事故なんかもこれが問題視され
ましたが、会社側の責任は追及さてつつも
いずれも運転手、操縦士の
個人的な問題、過失が最大の原因となっていた。
羽田の逆噴射事故でも同じだ。

今回の航空機事故から
また精神疾患者への風当たりや偏見は
過敏になることでしょう。

事の本質は、個人的な問題よりも
そういう類の事故や事件が増えてきている。
ここが問題の根源ではないかと。
というのは、個人的な問題にしてしまうと
予防措置がとれなくなってしまうからです。
問題はそういうふうに追い込んでしまう
社会環境にあるのではないかと。
いつまでも個人の問題として割り切ろうとしても
限界があるんだよな・・・

まともとまともでないの違いがわからない
となんども記事でこぼしてきました。
彼らをまともじゃない側の人間にすることは
そう難しくはない。
でも、これってイスラム過激派のテロより
怖い存在じゃではないのか?
なぜならば
それは実体がつかめないからだ。

ヨーロッパ、特にドイツなどでは
移民排斥運動が激しい。
でもそれって移民が問題なのだろうか?
昔むかしヨーロッパでユダヤ人が迫害され
それをオーストリアが受け入れ財政立て直しに
利用したまではよかったけれど
そこから激しいユダヤ人迫害が起こり
ナチスドイツのホロコーストに発展していった
それと同じだ。

ユダヤ人も移民もまだ実体がある
けれど、イスラム過激派テロの脅威よりも
恐いのは実体のないものだ。
それは当然精神疾患者なんかじゃない。
私たち自身なのだ。

多数派に潜む
いつ発狂するかわからない
普通の人たち

この社会、共同体、環境に
傷ついたり挫折したり歩調をあわせられない人を
ひっくるめて社会性不適合者とか落伍者とか
根性なしのヘタレのように捉える前に
この社会、共同体のあり方、環境に
問題があるとするならば
それにアレルギー反応をしめすのは
むしろ正当な反応ではないのか。

もっといえば、そういう環境に順応できる人
つまり世間一般のまともといわれる人こそ
無理があるのではないか。
なにか我慢比べのようでもあります。

そういう人たちは必死に正常という枠組みで
囲い込もうと必死だ。その必死さには
自分達はここまで我慢できているのにという
みょうな大義名分がある。
そしてすこしでもそれに適応しないものを
否定し排斥しようとする。
でなければ自分達のアイデンティティーさえも
危うくなる。それほどその足場は脆弱なのだ。

そういやってどんどんその囲い込みの輪は
狭まっていきます。
結果、ミステリのタイトルじゃないけれど
そして誰もいなくなった」となりかねない。
ま、それ以前に
経済や社会制度が崩壊するでしょうけどね。

バスに乗り遅れるなというけれど
そのバスに乗ってはいけないのではないか。
だってそのバスの行き先は?

人間の特性は比較と過剰だといわれます。
比較は劣等感と優越感を生み出し
嫉妬と差別を生み出してしまう場合が多い。
そして過剰の行き着く先は破滅だ。

そのことは、そんなことは
いわれないでも
なんとなくではあっても
みんなわかっている。けれども
向き合いたくたくない。考えたくない。
自分だけはなんとか乗り切れると信じようとします。

この「自分だけは」
これがくせものなんだよな(汗)